阿久津隆 "土にまみれた旗" 2026年5月15日

阿久津隆
阿久津隆
@akttkc
2026年5月15日
土にまみれた旗
p.56 月が東方の黒々とした丘陵の壁の彼方に出ており、谷間を穏やかに照らしていた。馬車道に沿って生えている樫やニセアカシアの木の向こうで、子供の風船のようにのぼっている。ベイヤードは月光の下、ベランダの手すりに足をのせて座っていた。葉巻がときおり赤く光った。すぐ近くの草むらからはコオロギの甲高い単調な鳴き声が聞こえ、遠く離れた木々のあいだからは若い蛙たちが妖精の笛のような音を、無数に湧きあがる銀色の泡のように出している。 ここを読んだ瞬間、たぶん「コオロギの甲高い単調な鳴き声」あたりの瞬間に、ぶわっと、大田原の、母方の実家の感じがやってきて、「うわっ」とびっくりした。小さなころは泊まりにいったときに寝るのは一階の奥の畳の部屋だったり、おばあちゃんの部屋だったりだったが、高校生とか大学生になって一人で行って泊まるときは二階のいとこがかつて使っていた部屋になったりして、その部屋は腰の高さのところに窓があって向こうが奥行きの狭いベランダが、そんなにそこに出た記憶はないけれど、あって、そこに出たら夜であれば空は月と星しか光はたぶんなくて、夜に出たことはないけれど玄関を出て庭があり、舗装が途切れるところからは畑になり、少し進めば竹林が壁になって高くまでそびえて、ぽっかりと空いた林の入り口から下り坂になって、下って林を抜けたら田んぼが広がっている。どこまでがうちの敷地なのかはわからないが、考えてみたら田んぼ側からは誰でも入ってくることはできるわけで、馴染みのない真っ黒の、静かな、あるいは虫と蛙の音で騒がしい夜のなかで、境界のない家というのはどこかで意識はされていただろう、だから不安だったということでもないけれど、特別な夜ではあったはずで、その感じが急にやってきてうろたえた。そのあと戦争から帰ってきた孫がハイテンションで不機嫌に話し続けて、「暴力とスピードと死の物語」が口から溢れ、何度注意されても声は高まって、抑えられない様子だった。「ジョニーのことを話しておくれ」とミス・ジェニーが話して、ジョニーというのはヤング・ベイヤードの兄弟とかっぽかった。戦死したっぽかった。
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