まめの
@mameno
2026年6月25日
世界のほうがおもしろすぎた
松岡正剛
読み終わった
自分が惹かれる文章を並べてみたら、根っこにあるのは「確定させないことへの信頼」なのかもしれないと思った。
わからないもの、ぴったり言い切れないもの、まだ名づけたくないもの。
それらを「欠けている」のではなく、余白を含んだものとして受け取ること。
すぐに正解に回収しない。
自分の中にある複数の自分も、矛盾も、曖昧さも、そのまま置いておく。
それは優柔不断ではなく、物事を狭めすぎないための豊かさなのかもしれない。
---引用
思想とか文化というものは、チグハグのほうがいいと思っているんです。チグはチグ、ハグはハグというふうに、どちらかにはっきりさせないほうがいい。それを何もかもはっきりさせて、きっちり分けられるものを分けよう、取り違えをおこさないようにしようとしすぎると、〇✕式の答えあわせにこだわる社会、コンプライアンス型の社会にどんどん嵌まっていってしまう。これはやばいですよ。
もちろん、チグハグ状態はあまりにも曖味に見えるので、ふつうは耐えられない。どちらかにしてほしい、はっきりさせてほしいと思ってしまいがちです。でも、本来はどんなものも、チグとハグの両方状態で、抜けばいいのか打てばいいのかはっきりしないものなんですよ。自然界では、生命も物質も、植物の芽から素粒子・量子にいたるまで、だいたいのものがチグハグ状態にあります。それをチグとハグに分けているのは人間側の事情や都合にすぎないし、しかもごく一部分でしかかかわろうとしない見方になっていることが多いんですね。
実物そっくりになるというのではなく、ある程度の幅をもって許容しうるものにしていくというのかな。
ですから、見えるものと見えないものとの関係ということだけじゃなくて、見えても少し保留するもの、仮置きにしておきたいものもいっしょに入れておく。
いまはポップスなども正しいこととか、多数の人が理解できることに寄せすぎていて、つまらないですね。変異や事変を取り入れられなくなっている。誤解されたり理解されなかったりすることを恐れすぎているような気がします。
本当は、誰もが自分のなかに、いくつもの自分というものを持っている。かつてプロ野球選手に憧れた自分、ピーター・パンのように空を飛べると思っていた自分、ファイティング原田のように三分間の闘いに挑もうとする自分というようにですね。
自己というのはほんとうに覚束ないものだ、自分で「これが自分だ」と思っているものなんて、ほとんど当てにならない、自分というものもまたトレースできないものなのだ
つまらないところがあるなんて、当たり前のことですからね。
じつは、どんな著書も、いちばん書きたいことを、あんがいちゃんと着けていなかったりするんですね。
どんなテキストも、最初の読者は書いた本人なんですね。その最初の読者である自分というものを、どれくらい膨らませていけるかを、文章を書きながらずっと意識しています。
【空(くう)】
真理を知っていながら追求をそらすというか、直感はしているのに名指しはしないというか、あえてそこで勝負をかけない。
如来になるということも、勝負なんかと関係がないわけですよね。むしろ、そうなろうとすることに自宿や自慢を持ちすぎてしまってはいけない。そこを「空」のままにしておく。おそらく、そういうことに気がついた人たちが、あえて菩薩にとどまるというあり方を選んだんじゃないか。
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言葉で説明し尽くしすぎない、含みや意図しない解釈までを許容した文章

