たま子 "囚人のジレンマ 下" 2026年5月29日

たま子
たま子
@tama_co_co
2026年5月29日
囚人のジレンマ 下
囚人のジレンマ 下
リチャード・パワーズ,
前山佳朱彦,
柴田元幸
河川敷まで数分のところに住んでいると、平日昼間から炭火の美味しそうな匂いがただよってくることがあり、どうやら金曜日からバーベキューをしている強者がいるらしい。うらやましくてはらぺこで匂いを嗅ぎながら昨日の残りごはんをたべた。夜、金曜日だしビールでも飲もうかということでぴー太と晩酌。作りながら飲んでキッチンとリビングを行ったり来たりしつつ、それぞれに本を読む。弟エディとはまったく違う方法で、兄アーティは父の居所を探す。家族を通して不在の父の感情がどっと押し寄せてたまらないきもちになり、野菜炒めを食べてビールを飲んでは半泣きになりながら読んだ。あと数ページ、残りは明日読もう。 ーp256 アーティは冷たい床板に両足を下ろそうとしたが、できなかった。すきま風の通るこの家で唯一目覚めた存在として、この世界でいま光っている唯一の閃光として、じっと横になっているしかなかった。自分の息づかいが、耳の毛細血管を流れる自分の血が聞こえた。デヴォン紀の木が鉱物になるのと同じくらい緩慢に、不確実に、アーティは彼の父になった。取るに足らぬ、統計的に無意味な、いろんなものを失うのなら生きることもできない臆病者になった。どうしてみんなやって行けるのか? だが人々はやって行く、新聞の見出しが彼らにはおよそ理解できぬほど巨大になっても。美しいものは耐えがたく脅かされ、それによって神経は怖気づく。アーティは凍りついて横たわった。  だが神経はーーとアーティは徐々に思い出した。いつだって結局は落ち着くのだ。仕事と眠り、皿洗いと洗濯から成る、いつもながらの局部的なルーティーンに落ち着く。隣の部屋で誰かが、ついさっきまではその存在があまりに美しく耐えがたいと思えた誰かが息をしている音を聞いて落ち着く。神経は落ち着き、死ぬ。使える時間は一、二分にしかない。  もう眠りには戻りようがなかった。だがアーティは、いまなお控えている闇の数時間、ずっと自分自身につき合う気はなかった。真夜中に寝床から出ることは、ゲームのルールを見る影もなく変えてしまうこと、新しいゲームの恐怖を一からつくり出すこと。それから、彼の目を覚まさせた思いつきをどこから試したらいいかが思い浮かんだ。気合を入れて、ピンクの両足を床に下ろし、たちまち自由になった。やろうと思えばなんだってできる。家は準備ができている。そして家は彼のものだ。一瞬のあいだ、冬用ローブのフランネルの肌ざわりを感じていると、豊穣さがふたたび暴走し、恐ろしさを取り戻した。だが、動き回ること、八方破れに動き回ることが、彼に唯一残された道なのだ。アーティはそれを選びとった。
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