
吹
@ojamimi
2026年5月25日
密やかな結晶 新装版
小川洋子
読み終わった
「いいや。そんな心配はないよ。心には輪郭もないし、行き止まりもない。だから、どんな形のものだって受け入れることができるし、どこまでも深く降りてゆくことができるんだ。記憶だって同じさ」
「今までに島から消えていったものたちが、あなたの中には全部完全に残っているんですね」
「完全といえるかどうかは分らない。記憶はただ増えるだけじゃなくて、時間をかけながら移り変わってゆくからね。時には消えてゆくものだってある。でもそれは、君たちの身に降りかかってくる消滅とは、根本的に違う種類のものだけど」
「どういうふうに違うのですか」
わたしは自分の爪を撫でながら尋ねた。
「僕の記憶は根こそぎ引き抜かれるということはない。姿を消したように見えても、どこかに余韻が残っているんだ。小さな種のようなものだ。何かの拍子にそこへ雨が吹き込むと、また双葉が出てくる。それにたとえ記憶がなくなっても、心が何かをとどめている場合もある。震えや痛みや喜びや涙をね」
彼は慎重に言葉を選んで話した。考えついた言葉を、一つ一つ舌の上で感触を確かめてから口にしているような喋り方だった。
喋っている間もずっと涙は流れ続けていた。こんなにも泣いているのに、どうしてすらすらと途切れなく喋れるのか不思議だった。感情と涙と言葉の三つが、わたしの手の届かないところでそれぞればらばらに、あふれ出てくるのだった。
「もしかしたら、わけもなくこんなに泣いてしまうのは、わたしの心が自分でも救いようがないくらいに衰弱してしまった証拠かもしれないわ」
「そんなことはないさ。むしろその反対だよ。心が精一杯自分の存在を主張しているんだ。どんなにたくさんの種類の記憶を秘密管察が持ち去ったって、心をゼロにすることはできないんだ」
しずかにそっと閉じてゆく世界を眺めるのは、やるせなくて、さびしくて心苦しい。綴ってあるひとつひとつがあまりにうつくしく輝いているもんだから余計に苦しかった。
わたしにとっての結晶ってなんだろう。沢山ある。

