
綾鷹
@ayataka
2026年5月31日
自分の中に毒を持て<新装版>
岡本太郎
一つ一つの文章が衝撃的。自分自身と戦い続けてきたからこその力強い言葉。
一般企業の安定した環境で過ごしてきた自分には耳が痛い。でも自分と戦いたいと勇気が持てる本だった。
・財産も知識も、蓄えれば蓄えるほど、かえって人間は自在さを失ってしまう。過去の蓄積にこだわると、いつの間にか堆積物に埋もれて身動きができなくなる。
人生に挑み、ほんとうに生きるには、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。それには心身とも無一物、無条件でなければならない。捨てれば捨てるほど、いのちは分厚く、純粋にふくらんでくる。
今までの自分なんか、蹴トバシてやる。そのつもりで、ちょうどいい。
・自分らしくある必要はない。むしろ、"人間らしく"生きる道を考えてほしい。
・安易な生き方をしたいときは、そんな自分を敵だと思って闘うんだ。
たとえ、結果が思うようにいかなくたっていい。結果が悪くても、自分は筋を貫いたんだと思えば、これほど爽やかなことはない。
人生というのはそういうきびしさをもって生きるからこそ面白いんだ。
・そしてみんな、必ずと言ってよいほど、安全な、間違いない道をとってしまう。
それは保身の道だから。その方がモラルだと思っている。ぼくは、ほんとうにうんざりする。
人々は運命に対して惰性的であることに安心している。これは昔からの慣習でもあるようだ。
・「安全な道をとるか、危険な道をとるか、だ」あれか、これか。
どうしてそのときそんなことを考えたのか、今はもう覚えていない。ただ、このときにこそ己に決断を下すのだ。戦慄が身体の中を通り抜ける。この瞬間に、自分自身になるのだ、なるべきだ、ぐっと総身に力を入れた。
「危険な道をとる」
いのちを投げ出す気持ちで、自らに誓った。死に対面する以外の生はないのだ。
その他の空しい条件は切り捨てよう。そして、運命を爆発させるのだ。
・だが現在のわれわれにとって、これは大変な間違いであるとぼくは思う。今までは、謙虚であるということが世渡りの第一歩みたいなものと考えられてきた。
だがぼくの考え方では、それは非常に傲慢だとは言えないが、不遜だと思う。というのは、自分はどのくらいの能力があり、どのくらいのことをすべき器であるかということを見極めようとしないで、つまり、自分のことが自分でわからないのに、勝手に自分はダメだと見切り、安全な道をとってしまう。
このように自分を限定してしまい、その程度の人生で諦めてしまえば、これは安全な一生。だが、自分が今の自分を否定して、更に進み、何か別な自分になるうとすることには大変な危険が伴う。
・夢を見ることは青春の特権だ。
これは何も暦の上の年齢とは関係ない。十代でも、どうしようもない年寄りもいるし、七十、八十になってもハツラツとして夢を見つづけている若者もいる。
だから年齢の問題ではないが、青年の心には夢が燃えている。だが、そういった夢を抑圧し閉ざしてしまう社会の壁がこの現代という時代にはあまりにも多すぎる。
ぼくは口が裂けてもアキラメロなどとは言わない。
・それに、人間にとって成功とはいったい何だろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか、ではないだろうか。
夢がたとえ成就しなかったとしても、精いっぱい挑戦した、それで爽やかだ。
・ぼくはあの若い日の決意を絶対に押し通すのだ。とことんまで危険な道を選び、死に直面して生きるー確かにぼくは異端者扱いされ、村八分を食った。しかし、それは逆に生き甲斐だ。その悲劇に血を流しながら、にっこりと笑って筋を貫いた。
だから外から見れば、あいつはいい気なやつだと思われたりする。だが見えない裏での絶望的な闘いはきびしい。言いようがない。しかし貫くのだ。
もちろん怖い。だが、そのときに決意するのだ。よし、駄目になってやろう。
そうすると、もりもりっと力がわいてくる。
食えなけりゃ食えなくても、と覚悟すればいいんだ。それが第一歩だ。その方が面白い。
・体当たりする前から、きっとうまくいかないんじゃないかなんて、自分で決めて諦めてしまう。愚かなことだ。ほんとうに生きるということは、自分で自分を崖から突き落とし、自分自身と闘って、運命をきりひらいていくことなんだ。
それなのに、ぶつかる前から決めこんでしまうのは、もうその段階で、自分の存在を失っている証拠じゃないか。
・人生を真に貫こうとすれば、必ず、条件に挑まなければならない。いのちを賭けて運命と対決するのだ。そのとき、切実にぶつかるのは己自身だ。己が最大の味方であり、また敵なのである。
・そこでぼくはそういう駄目人間、不安で、迷って、自肩がない、何をしたらいいのか、てんでわからないあなたに提案する。
自分はそういう人間だ。駄目なんだ、と平気で、ストレートに認めること。
そんな気の弱いことでどうするーとクヨクヨしても、気は強くならない。
だから、むしろ自分は気が弱いんだと思って、強くなろうとジタバタしない方がいい。
諦めるんではなく、気が弱いんだと思ってしまうんだ。そうすれば何かしら、自分なりに積極的になれるものが出てくるかもしれない、つまらないものでも、自分が情熱を賭けてうち込めば、それが生きがいだ。
・では、どうしたらいいのか。人に相談したって仕様がない。まず、どんなことでもいいからちょっとでも情熱を感じること、惹かれそうなことを無条件にやってみるしかない。情熱から生きがいがわき起こってくるんだ。情熱というものは、”何を"なんて条件つきで出てくるもんじゃない、無条件なんだ。
何かすごい決定的なことをやらなきゃ、なんて思わないで、そんなに力まずに、チッポケなことでもいいから、心の動く方向にまっすぐに行くのだ。失敗してもいいから。
ー 迷ったら、危険な道に賭けるんだー
何を試みても、現実ではおそらく、うまくいかないことのほうが多いだろう。
でも、失敗したらなお面白いと、逆に思って、平気でやってみればいい。とにかく無条件に生きるということを前提として、生きてみることをすすめる。
・「いまはまだ駄目だけれど、いずれ」と絶対に言わないこと。”いずれ"なんていうヤツに限って、現在の自分に責任を持っていないからだ。
生きるというのは、瞬間瞬間に情熱をほとばしらせて、現在に充実することだ。
過去にこだわったり、未来でごまかすなんて根性では、現在をほんとうに生きることはできない。
・よく、”どうしてそんなに自肩があるんですか"とか、自宿に満ちていてうらやましい”とか言われる。だが、ぼくは自肩があるとは思っていない。
自言なんてものは、どうでもいいじゃないか。そんなもので行動したら、ロクなことはないと思う。
ただ僕はありのままの自分を貫くしかないと覚悟を決めている。それは己自身をこそ最大の敵として、容赦なく闘いつづけることなんだ。
自分が頭が悪かろうが、面がまずかろうが、財産がなかろうが、それが自分なのだ。それは"絶対"なんだ。実力がない?けっこうだ。チャンスがなければ、それもけっこう。うまくいかないときは、素直に悲しむより方法がないじゃないか。
そもそも自分を他と比べるから、自言などというものが問題になってくるのだ。
わが人生、他と比較して自分をきめるなどというような卑しいことはやらない。
ただ自分の倍じていること、正しいと思うことに、わき目もふらず突き進むだけだ。
自倍に満ちて見えると言われるけど、ぼく自身は自分を始終、落ちこませているんだ。徹底的に自分を追いつめ、自肩を持ちたいなどという卑しい考えを持たないように、突き放す。
つまり、ぼくがわざと自分を落ちこませている姿が、他人に自に満ちている意外な発想を持たないとあなたの価値は出ない
ように見えるのかもしれない。
ぼくはいつでも最低の悪条件に自分をつき落とす。そうすると逆にモリモリッとふるいたつ。自分が精神的にマイナスの面をしょい込むときこそ、自他に挑むんだ。ダメだ、と思ったら、じゃあやってやろう、というのがぼくの主義。
・社会的に力がないとか、筋肉が弱いとかいうことも、人間がほんとうに生きるということ、それに対する強さとは関係ないんだ。
他に比べて弱くても、自分は充実して生きている、これで精一杯だと思えば、悔やむことも熱くこともない。人生はひらく。
・人間は自分をきつい条件の中に追い込んだときに、初めて意志の強弱が出て
くる。
この点を、実に多くの人がカン違いしている。たとえば、画家にしても才能があるから絵を描いているんだろうとか、情熱があるから行動できるんだとか人は言うが、そうじゃない。
逆だ。何かをやろうと決意するから意志もエネルギーもふき出してくる。
何も行動しないでいては意志なんてものありやしない。
-たら、危険な道に賭けるんだー
自はない、でもとにかくやってみようと決意する。その一瞬一瞬に賭けて、ひたすらやってみる。それだけでいいんだ。また、それしかないんだ。
意志を強くする方法なんてありはしない。そんな余計なことを考えるより、ほんとうに今やりたいことに、全身全霊をぶつけて集中することだ。
・いじめられるんじゃないかという恐怖心を持つのは〃人間”だからなんだ。
人間は他の動物よりも進歩している存在にみえるかも知れないけど、不安や恐怖感を抱かずにはいられない、悲しい運命を背負っている。
逆に人間のほうが他の動物より辛い、寂しい生き方をしているのは確かだ。
だから見方をかえれば、人間として生まれてきた以上、恐怖感があるというの
は、むしろ自然なことなのだ。
これから文明がさらに発達するにつれて、恐怖感を持つ人はもっと増えてくる
と思う。
恐怖感は自分一人でなく、これは人類全体の運命なんだと思って、取り組んでいけば、意外に救われるんじゃないか。
・ぼくは、プライドというのは絶対感だと思う。
自分がバカであろうと、非力であろうと、それがオレだ、そういう自分全体に責任を持って、堂々と押し出す。それがプライドだ。ところが自尊心だとかプライドだと言いながら、まるで反対のことを考えている人間が多い。
他人に対して自分がどうであるか、つまり、他人は自分のことをどう見ているかなんてことを気にしていたら、絶対的な自分というものはなくなってしまう。
プライドがあれば、他人の前で自分をよく見せようという必要はないのに、他人の前に出ると、自分をよく見せようと思ってしまうのは、その人間にコンプレックスがあるからだ。
・大切なのは、他に対してプライドを持つことでなく、自分自身に対してプライドを持つことなんだ。
他に対して、プライドを見せるということは、他人に基準を置いて自分を考えていることだ。そんなものは本物のプライドじゃない。たとえ、他人にバカにされようが、けなされようが、笑われようが、自分がほんとうに生きている手ごたえを持つことが、プライドなんだ。
相対的なプライドではなくて、絶対感を持つこと、それが、ほんとうのプラドだ。このことを貫けなかったら、人間として純粋に生きてはいけない。
だから、自分は未熟だといって悩んだり、非力をおそれて引っ込んでしまうなんて、よくない。
それは人間というものの考え方を間違えている。というのは人間は誰もが未熟なんだ。自分が未熟すぎて心配だなどというのは甘えだし、それは未熟ということをマイナスに考えている証拠だ。
ぼくに言わせれば、弱い人間とか未熟な人間のほうが、はるかにふくれあがる可能性を持っている。
・未熟ということをプラスの面に突きあげることが人間的であり、素晴らしいことだと思わなければいけない。
よく世間一般では完成された人は素晴らしいというが、この世の中には、完成なんてことは存在しないんだ。完成なんてことは他人が勝手にそう思うだけだ。
世の中を支配している”基準"という、意味のない目安で他人が勝手に判断しているだけだ。
ほんとうに生きるということは、いつも自分は未熟なんだという前提のもとに平気で生きることだ。それを忘れちゃいけないと思う。
・ぼくは"幸福反対論者"だ。幸福というのは、自分に辛いことや心配なことが何もなくて、ぬくぬくと、安全な状態を言うんだ。
だが、人類全体のことを考えてみてほしい。
たとえ、自分がうまくいって幸福だと思っていても、世の中にはひどい苦労をしている人がいっぱいいる。この地球上には辛いことばかりじゃないか。難民問題にしてもそうだし、飢えや、差別や、また自分がこれこそ正しいと思うことを認められない苦しみ、その他、言いだしたらキリがない。深く考えたら、人類全体の痛みをちょっとでも感じとる想像力があったら、幸福ということはありえない。
・行きづまったほうが面白い。だから、それを突破してやろうと挑むんだ。もし、行きづまらないでいたら、ちっとも面白くない。
・行きづまりをきりひらくには、ぼくのように、行きづまりに追われたら逃げな
いで、むしろ自分自身を行きづまりに突っ込んでいく。
強烈に行きづまった自分に闘いを挑んでいくことだ。行きづまりをこえ、うれしく展開させてゆくんだ。
・もっと厳しく自分をつき放してみたらどうだろう。
友達に好かれようなどと思わず、友達から孤立してもいいと腹をきめて、自分を貫いていけば、ほんとうの意味でみんなによろこばれる人間になれる。
・人は自分を客観視しているように思っていても、実は誰でも自分が好きで、大事にしすぎているのだ。
そういう自分をもう一度外から眺めるようにしてみよう。”なんだ、お前は。
この世の中でマメップほどのチッポケな存在だ。それがウヌボレたり、また自分を見くだして、いやになったりしている。バカなことだ”と突っぱなして、いまの状態をアリアリと見るんだ。
それで投げてしまうんじゃない。自分がマメッブならそれでいい。小さな存在こそ世界をおおうのだ。
・考えてみれば、その時代から、今日に至るまでぼくは少しも変わっていない。
あらゆる場所、あらゆる状況で、孤独な、「出る釘」であったのだ。そして叩かれても叩かれても、叩かれるほどそれに耐えて自分をつき出してきた。…・・・いや、むしろ、出ずにはいられなかった。それが情熱であり、生きがいだからだ。
・才能のあるなしにかかわらず、自分として純粋に生きることが、人間のほんとうの生き方だ。頭がいいとか、体がいいとか、また才能があるなんてことは逆に
個性は出し方薬になるか事になり
生きていく上で、マイナスを背負うことだと思った方がいいくらいだ。
・人間だれでもが身体障害者なのだ。たとえ気どった恰好をしてみても、八頭身であろうが、それをもし見えない鏡に映してみたら、それぞれの絶望的な形でひんまがっている。しかし人間は、切実な人間こそは、自分のゆがみに残酷な対決をしながら、また撫でいたわりながら、人生の局面を貫いて生き、進んでいくのだ。
・考えてみると、人生には、世渡りと、ほんとうに生きぬく道と二つあるはずだ。
ところが、ほとんどの人間は、この世をどううまく渡っていくかという処世的なスジしか考えない。そして大学に進むということは、そのためのお守り札である。だから、別に学問がしたいという切実な願望があるわけではないのだ。
・バスに乗り込むために受験勉強は一応はするけれど、それが生きがいにつながっているとは、誰も思わない。今日の若者のむなしさがそこにある。それからのがれようとすれば、自殺でもするか、スピード、セックスなんかで瞬間的に自分をまぎらわすか、以外にはないだろう。
・たんたんとした道をすべって行くむなしさに流されてしまわないで、傷つき、血のふき出る身体をひきずって行く。言いようのない重たさを、ともども経験し、噛みしめることだ。それが人生の極意なのである。
・人生うまくやろうなんて、利口ぶった考えは、誰でも考えることで、それは大変卑しい根性だと思う。繰り返して言う。世の中うまくやろうとすると、結局、人の思惑に従い、社会のベルトコンベアーの上に乗せられてしまう。一応世間体もよく、うまくはいくかもしれないが、ほんとうに生きているのではない。流されたままで生きているにすぎない。
・激しく挑みつづけても、世の中は変わらない。
しかし、世の中は変わらなくても自分自身は変わる。
世の中が変わらないからといって、それでガックリしちゃって、ダラッと妥協したら、これはもう絶望的になってしまう。そうなったら、この世の中がもっともっとつまらなく見えてくるだろう。
だから、闘わなければいけない。闘いつづけることが、生きがいなんだ。
・つまり親子関係というより、人間対人間の関係だったんだ。今思うと、一人の人間として、本気でぼくの挑戦にこたえてくれた両親が、やはりえらかったという気がする。
・誰でも子供だったことがあり、今も存在の底の底には子供そのものの心が生きているはずなのに、ほとんどがそれを忘れてしまっている。思い出してみるがいい。七つか八つ頃から、もう大人なのだ。今の社会制度が「子供」という枠にはめてしまって、人間的責任、誇り、人格を認めないから、そのズレに、いらだち、無力感、憤適が生まれてくる。
親子、先生と生徒、当然立場の違いはある。親だから生活的面倒はみる。先生は教える。としても、しかし人間としてはまともに、向きあうべきだ。人間同士として。
でなければ尊敬も愛情も、一体感も生まれるはずがない。
・ほんとうに生きようとする人間にとって、人生はまことに苦悩にみちている。
矛盾に体当たりし、瞬間瞬間に傷つき、総身に血をふき出しながら、雄々しく生きる。生命のチャンピオン、そしてイケニエ。それが真の芸術家だ。
・明治百年以来、日本人はなりふり構わず、大変な背のびをしてきた。その成果で経済大国になったようだが。しかし国や組織ばかり太っても、一人一人の中身は逆に貧しくなってしまったのではないか。
「日本人」は変身しなければならない。
政治家よ、エコノミストよ、官僚よ、もっと人間になってほしい。そして芸術家に。
・芸術と言っても、何も絵を描いたり、楽器を奏でたり、文章をひねくったりすることではない。そんなことはまったくしなくても、素っ裸で、豊かに、無条件に生きること。
失った人間の原点をとりもどし、強烈に、ふくらんで生きている人間が芸術家なのだ。
・ぼくが芸術というのは生きることそのものである。人間として最も強烈に生きる者、無条件に生命をつき出し爆発する、その生き方こそが芸術なのだということを強調したい。
"芸術は爆発だ"
・生きるしそれは本来、無目的で、非合理だ。科学主義者には反論されるだろうが、生命力というものは盲目的な爆発であり、人間存在のほとんどと言ってよい巨大な部分は非合理である。われわれはこの世になぜ生まれてきて、生きつづけるのか、それ自体を知らない。存在全体、肉体も精神も強烈な混沌である。そしてわれわれの世界、環境もまた無限の迷路だ。
だからこそ生きがいがあり、情熱がわく。人類はその、ほとんど盲目的な情感に賭けて、ここまで生き抜いてきたのだとぼくは思う。
ところが科学主義・合理主義は割り切れたものだけしか問題にしない。そのシステムによって動く現代社会、産業、経済機構のなかで、すべては合理的に、また目的化される。"生きる”ということの非合理、猛烈な情感は顧みられない。
ほとんどの現代人は己の存在のなかの芸術家を圧殺している。だから人々は疎外され、知らず知らずに絶望しているのだ。絶望しているということさえ知らないほど、深く、空しく。
・生きるしそれは本来、無目的で、非合理だ。科学主義者には反論されるだろ220
うが、生命力というものは盲目的な爆発であり、人間存在のほとんどと言ってよい巨大な部分は非合理である。われわれはこの世になぜ生まれてきて、生きつづけるのか、それ自体を知らない。存在全体、肉体も精神も強烈な混沌である。そしてわれわれの世界、環境もまた無限の迷路だ。
だからこそ生きがいがあり、情熱がわく。人類はその、ほとんど盲目的な情感に賭けて、ここまで生き抜いてきたのだとぼくは思う。
ところが科学主義・合理主義は割り切れたものだけしか問題にしない。そのシステムによって動く現代社会、産業、経済機構のなかで、すべては合理的に、また目的化される。”生きる"ということの非合理、猛烈な情感は顧みられない。
ほとんどの現代人は己の存在のなかの芸術家を圧殺している。だから人々は疎外され、知らず知らずに絶望しているのだ。絶望しているということさえ知らないほど、深く、空しく。
・コミュニケーションというのはそもそも本質的に無条件なものだ。無償、無目的であるべきものだ、とぼくは考える。ところが今日では、すべてが経済的メリット、それに材料を提供するというだけの面で処理されてしまう。そこに人間存在の孤立化を逆に拡大しているという感じが生まれてくるのだと思う。確かにその空しさを、危険を、みんな漠然と感じている。だから情報とは何かという問いが一種の批判の変形としてくり返して発せられるのだ。
・ほとんどの人は政治、経済だけが価値であり、社会の現実だと思って生きているようだ。条件のみの上に成り立つ世界。それでは人間は空しい。駄目になってしまう。
人間の生命、生きるという営みは本来、無条件、無目的であるはずだ。何のためこの世に来たのか。そして生きつづけているのか。ほんとうを言えば、誰も知らない。本来、生きること、死ぬことの絶対感があるだけなのだ。
・ぼくはこの時点でこそ、逆の発想を展開すべきだと思う。人間は本来、非合理第四章
的存在でもある。割り切れる面ばかりでなく、いわば無目的な、計算外の領域に生命を飛躍させなければ生きがいがない。ただの技術主義だけでは空しい。進歩、発展に役立つという、条件づけられた技術ではなく、まったく無償に夢をひろげていくこと。ナマ身で運命と対決して歓喜するのがほんとうの生命感なのだ。そのような全存在的充実感をとり戻すのでなければ、何のためのテクノロジーか、とぼくは思う。
これはそのまま、真の生き方、人間性、つまり芸術の問題でもある。
・繰り返して言う。何度でもぼくは強調したいのだ。すべての人が芸術家としての情熱を己の中に燃えあがらせ、政治を、経済を、芸術的角度、つまり人間の運命から見かえし、激しく、強力に対決しなければならないと。
つまり、合理に非合理をつきつけ、目的的思考のなかに無償を爆発させる。あいまいに、ミックスさせることではない。猛烈に対立し、きしみあい、火花を散らす。
・ぼくがここで問題にしたいのは、人類全体が残るか滅びるかという漠とした遠い想定よりも、今現時点で、人間の一人ひとりはいったいほんとうに生きているだろうかということだ。
ほんとうに生きがいをもって、瞬間瞬間に自分をひらいて生きているかどうか。
システムのベルトコンベアーに乗せられ、己を失って、ただ惰性的に生活をつづけているというのなら、本質的に生きているとは言えない。ならば人類滅亡論をいうことも意味がないじゃないか。一人ひとりが強烈な生きがいにみちあふれ、輝いて生きない限り。
・個人財産、利害得失だけにこだわり、またひたすらにマイホームの無事安全を願う、現代人のケチくささ。卑しい。小市民根性を見るにつけ、こんな群れの延長である人類の運命などというものは、逆に蹴とばしてやりたくなる。
人間本来の生き方は無目的、無条件であるべきだ。それが誇りだ。
死ぬのもよし、生きるもよし。ただし、その瞬間にベストをつくすことだ。現在に、強烈にひらくべきだ。未練がましくある必要はないのだ。
一人ひとり、になら運命が栄光に輝くことも、また惨めであることも、ともに巨大なドラマとして終わるのだ。人類全体の運命もそれと同じようにいつかは消える。
それでよいのだ。無目的にふくらみ、輝いて、最後に爆発する。
平然と人類がこの世から去るとしたら、それがぼくには栄光だと思える。
