綾鷹 "ポトスライムの舟" 2026年6月2日

綾鷹
綾鷹
@ayataka
2026年6月2日
ポトスライムの舟
過去の職場でのトラウマから抜け出せずにいる29歳の契約社員・ナガセが、自分の年収と同じ額である「163万円の世界一周クルーズ旅行」の費用を貯めることを目標に、淡々としながらも前向きに日常を営んでいく姿を描いた物語。 ナガセの「過去(会社員時代)」として描かれた「十二月の窓辺」では、就職氷河期に新卒で入社した会社の上司から執拗かつ陰湿なパワハラを受けながらも、ナガセがささやかに抵抗し、会社から脱却する話が描かれている。 津村記久子さんの物語は主人公が仕事にも人間関係にも誠実で、日常の幸せを大切にしているから好きだなぁ。 「十二月の窓辺」はパワハラの様子がリアルだけど、津村記久子さんの社会人時代の経験から書かれたと知って納得。 パワハラ上司に天罰が下るようなスカッとした終わりではないけど、「ポトスライムの舟」でナガセが自分を取り戻せているようでよかった。 ◾️ポトスライムの舟 ・たぶん自分は先週、こみ上げるように働きたくなくなったのだろうと他人事のように思う。工場の給料日があった。弁当を食べながら、いつも通りの薄給の明細を見て、おかしくなってしまったようだ。『時間を金で売っているような気がする』というフレーズを思いついたが最後、体が動かなくなった。働く自分自身にではなく、自分を契約社員として雇っている会社にでもなく、生きていること自体に吐き気がしてくる。時間を売って得た金で、食べ物や電気やガスなどのエネルギーを細々と買い、なんとか生き長らえているという自分の生の頼りなさに。それを続けなければいけないということに。 ・そういうヨシカの誘いにも、恵奈は頑なに首を振り、小学校にいけますように、と繰り返した。順番が回ってきて、他の人々が次々に願い事を口にしているのに、ナガセには何も言うことがなかった。棒立ちになっていると、ヨシカがコートの肘を引っ張って、あんたも、とせかした。わたしは何か今ちょっと思いつかんし、ええわ、と言うと、何言ってんの、世界一周やろ、とヨシカは呆れたように言った。ナガセは、ああ、まあね、と同意しながら、手を合わせて、せかいいっしゅうが、と頭の中で言いかけ、やめた。代わりに、ヨシカとりつ子と恵奈ちゃんとおかんの願いが叶いますように、と願って、そろそろと行列を離れた。自分でも、どうして世界一周クルージングができますように、ひいては、そのための費用が貯まりますように、などとは願わなかったのだろうと思うが、理由はよくわからなかった。それ以外の願いを思いつけないことについても、自分のお世辞にも恵まれているとは言えない生活を鑑みると不可解だった。もっと自分は望んでいいはずなのだけど。それこそ望むだけなのだとしたら。 ・また来るよ、と改札口で手を振りながら、ナガセはここに来るまでの電車賃について考えていた。けちくさいようだが、二週に一度ぐらいは来たいとなると、けっこう大きな額になるので、自転車で来ようかな、来れるかな、などと切符を見ながら首を傾げ、そもそも自分にはそんな時間さえ取れないかもしれないということに気付き、少し愕然とした。お金のために、お金を使わないために、無駄な時間を作らないために働いているからなのだが、そのことが理由で自分は、少し離れた友達の家に行く余裕すら持てないでいる。世界一周の費用は順調に貯まっていたが、ナガセにはなんだか、そのことが微かに空しく思えた。 ・電車通勤を始めたりつ子が、苦笑いしながらそんなことを言っていたのを思い出す。ナガセは、自分もその男の子になれたら、と思う。夜の電車の暗い窓に映る自分を探すぐらいのことで過ぎていく毎日。忙しくしているのは自分自身じゃないのかという自問が首をもたげるが、忙しくしないと生きていけないのだ、とすぐに心のどこかが答える。家を改修しなければいけないし、毎日ごはんを食べなければいけない。 暗い夜には電気をつけ、暑い夏には冷房を、寒い冬にはこたつや石油ストーブを動かせるだけの生活を維持するために。 維持して、それからどうなるんやろうなあ。わたしなんかが、生活を維持して。 ナガセは、自分の顔を見るのが嫌になって目をつむる。 ◾️十二月の窓辺 ・仕事そのものの上でこき使われることは平気だった。そういうものだろうという覚悟は常にしていたから。しかし、あらぬ疑いをかけられ、それが晴れてもそこで溜めた憂さをどこにも持っていきょうがないということは耐え難かった。あらかじめ、ツガワが所感を述べることを封じる方向へ話題を持っていかれるようにプログラムされているかのような状況は、ツガワの意欲を痩せ衰えさせるには充分だった。彼女達はそれを、あの親愛を込めた手つきや、元気出して、という言葉つきで行なうのだった。そんなことがこれから、幾度となく繰り返されるのかと思うと、そこに黙って座っていることすらままならないようにツガワには思えた。 ・「向かいのビルで人が殴られてました」どうして自分が見たことをP先輩に報告しているのかはよくわからなかった。「あんなふうに人が殴られているのを見たのは、高校の時に斜め前の席の男子が内職をしてて現社の先生に椅子から引き摺り下ろされて足にされているのを見た時以来です。そういやあの先生はお咎めなしだったと思う。自分もよく違う科目の宿題を授業中にしてたりしたから怖かったもんです。大人になっても稀にああいうことってあるんですね。わたしはそんなふうには思ってなかった。みんなもっとちゃんとしてると思ってました。おかしなことや自分の納得できないことがあると、それを冷静に指摘して対処するものだと思っていました。そうでもないことは世の中にいくらでもあるんですね」 ・アサオカが自分と同じ条件の下で苦汁をのまされていたのではないと知って、自分はやっと辞める気になったのだ、とツガワは思い出した。ここではないどこかは、当然こことは違い、そこには千差万別の痛みや、そのほかのことがあるとツガワは知ったのだった。 Vが自分に信じ込ませようとしたほど、世界は狭く画一的なわけではないと思ったのだった。自分がここから離れて、その感触に手を差し伸べに行くのは自由だと思ったのだった。
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