尾高 "タトゥーママ" 2026年6月2日

尾高
尾高
@otakake
2026年6月2日
タトゥーママ
タトゥーママ
ニック・シャラット,
ジャクリーン・ウィルソン,
小竹由美子
イチゼンブックス6月の選書  読後の正直な感想を敢えて飾らずに述べるとすると、「非常にクソッタレな気分」であった。とてもじゃないが『近所のパン屋で焼きたてのパンを買い、公園のベンチで読む』なんて素敵なシチュエーションにふさわしい読後感ではない。むしろ台風がくる前日の、雨足の強まる重苦しい湿度の中で読んでよかったとさえ思った。  育児中の自分にとって、育児放棄をされている子供を見るのはとても辛い気分になる。教師をやっていたとき、マリゴールドほどの親はいなかったが、決して「一般的ではない」家庭の子供を何人もみてきた。幸いにも彼らの多くは成人し、その姿を見ることができたが、決して全てではなかったことは今でも忘れられないでいる。  だから私にはマリゴールドを肯定することは絶対にできない。  これはそういう物語だ。と、思考を止めてしまおうかとも思ったが、せっかく時間を使ってこんな「クソッタレな気分」になったのだから、もう少し考えてみてもいいんじゃないか。そう思って、何章かを読み返した。  そして思ったことは、マリゴールドという女性の空虚さだった。  マリゴールドは母親には向いていない。それは彼女自身が自覚している。空想と夢と美しく独創的な世界に生きるマリゴールドは、刹那的な感情と情熱に突き動かされる人だ。彼女はなぜ娘2人を捨てなかったのだろうか。マリゴールドにとって、「ママ」でいるというのは彼女に許された居場所の一つだったのではないだろうか。ママと呼ばれている間、マリゴールドはどんな最低であろうとも、ママとして存在することを許される。(娘が一生懸命書いたバースデーカードを裏紙として使い、それをゴミ箱に捨ててしまっても)そう求められている。ママと呼び、愛してと縋る娘を抱くことで自己を肯定することができる。だから手放せなかったのではないか。  物語が進むにつれて、マリゴールドからはいろんなものが剥がれ落ちていく。  フラッシュの仕事だってろくにできない。スターの母親であることも拒まれ、出ていかれてしまった。ミッキーからも再会を望まれず、ドルは里親のところへ保護された。病院での投薬治療によって、燃えるような衝動もファンタジーも消えてしまって、さてそうして残ったマリゴールドとは一体なんだろうか。  家族も、想像力も、若さも、全部剥がれ落ちてしまったただのマリゴールドに己を肯定するだけのものは残っているのだろうか。  そう考えると、マリゴールドは他人事ではない。  かつては姉であり、娘であり、妻であり、先生であり、いまはママという役にいるが、やがてはその役を演じることも少なくなっていくだろう。妻であることも、娘であることも、姉であることもそうだ。いつかは登場しなくなる。 残るのは1人の人間だ。そうなったとき、自分は自分であると自信を持って立っていられるだろうか。加齢と共に湧き出る言葉は乏しくなり、発話も衰えていく。かつてはそれを自身の証明としていたが、加齢で少しずつ削がれていく様を実感して以来、それにも自信がなくなってきた。  以前、女性作家が母親としての役を少しずつ降り、自分自身を取り戻していきたいという話を読んだが、最初はよく理解できなかった。  先日完結した『海が走るエンドロール』の60代の主人公が、ずっとずっと焦っている理由が芯のところで腑に落ちていなかった。  けれどそれが、マリゴールドの存在でようやく理解できたかもしれない。  全ての役を降りたとき、私は私を証明できるだろうか。  これが焦りと不安の正体なのかもしれない。  私にできることは多くない。マリゴールドと大差ないかもしれない。  だからこの不安と焦りは誤魔化してはいけない。知識でも、経験でも、交流でも、とにかくなにか少しでも獲得していかなければいけない。  43歳になる6月に、この焦りを直視できたことは幸運であると思いたい。
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