
ヤマダ!
@ts_o_tw
2026年6月4日
女のいない男たち
村上春樹
読み終わった
村上春樹の作品の主人公は、自分のことを全然理解していないのに、口ぶりだけ理解しているような感じがずっとあり、滑稽で面白い。
空虚というか、とんでもない盲点や思考と思考の間の明確な欠落があるのに、そのことに気づいていないように見える。
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改めて保坂和志と村上春樹の共通点として「文体への固執」があることを強く意識しながら読んだ。『新潮』2025年10月号掲載の町屋良平による批評「小説の死後ー(にも書かれる散文のために)ー保坂和志、私、青木淳吾」において、保坂の作品の政治性として、現状では名付けられていない、見えざる弱者と連帯するという態度が指摘されていたが、それと対比されるのが社会問題の共有とその先の問いから始まるジャーナリズム的側面が強い作品であり、こちらではすでに名付けられているがいまだ社会から尊厳を脅かされる者たちの語りを描く。
町屋は保坂のスタンスを「”私”の一個の苦しみだけが、他者の一個の苦しみに寄り添えるという立場を取る」とし、一個の苦しみはすなわち一個の文体であるため、保坂や保坂から影響を受けた作家は自分の文体へ執着する。
そしてその文体への執着という特徴は、保坂に影響を与えた春樹の作品にも色濃く表れていると感じた。保坂と樫村晴香の対談内で、樫村は自身と保坂の作品には異なる角度からの「自閉症的」側面があると指摘した。保坂作品における過剰とも取れる緻密な描写はもちろんのこと、個の苦しみ=個の文体への執着がその中核となっているはずだ。
春樹の作品に対して「ミソジニー的だ」という批判がしばしば行われるが、ミソジニーというよりかは徹底的な文体への執着(すなわち作中においては主体の自己への執着といってもいい)があり、その主体がほぼ男性であるがゆえの視点の欠落であり、女性性以外のあらゆるものも取りこぼされているという感じ。全ての視点を拾い上げることは無理で、「”私”の一個の苦しみだけが、他者の一個の苦しみに寄り添える」というスタンスには同意できる部分もあるので、「こいつは女性について言及する時に身体的特徴に触れないでいることはできないのかよ」と時たまむかつきながらも楽しく読んでいる。
(これを「文体派」と呼ぶなら青木淳吾とかはめちゃくちゃそうだし、柴崎友香もそっち寄りな気がする。朝井リョウとかは真逆だよね〜〜〜)
でももちろん「自分だけの生きづらさを生きろ」みたいなのは明確に男性優位主義であった近代までの文学の流れを汲んでいるし、保坂よりも春樹作品に顕著な「自分だけが自分の痛みや傷に気づけていない男」的な像もめちゃ男性性だよね~~と思う。「男性」ではなく「男性性」。
個人的にはジャーナリズム的小説と保坂的な文体小説(と名付けてみる)だと、後者のほうが好みではあるが、単なるロマンチシズムの発露になりかねないという懸念はあり、町屋の言うように適切に批判できるくらい読み込むべきなのだと思う。
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そういえばこの間ホン・サンスを観た時に一緒に見た友人が「なんかちょっと保坂っぽいよね」と言っていて、それは普通だったら部分的に見せて終りにしてしまう地味な会話をフルで撮って流していたり、人間模様の中に突如、印象的に差し挟まれる鶏小屋や山の景色だったりだと思うが、上映後のトークで荘子itが「でもホン・サンスみたいなことをやろうとした人は大体みんな失敗するんですよね」といって、「つまり個の文体ってことね!」と思った。保坂もホン・サンスも、自分だけの文体を獲得しているから面白いわけであって、その文体を模倣することには何の意味もない。
【結論】
自分の文体、ゲットしたいぜ。





