
Ryu
@dododokado
2026年6月7日
さびしさについて
植本一子,
滝口悠生
読み終わった
「それがどんなものかをここで書くのは難しくて、それは前回書いた日記の書けなさにも実はつながっているし、一子さんも読んでくれた『長い一日』という小説がエッセイとして書きはじめられたのにだんだん小説=フィクションになっていったこととも関係するのですが、たとえば自分の生活のすぐそばにいる妻について、夫(である僕)が書くことは、もちろん文責は僕にありつつも、妻の言動や思考を奪ってしまうような部分が絶対に生じてしまう。
子どもが生まれてからはなおさらそうで、子どもについてなにかを決めようとしたり考えたりするとき、その主体が父親である「私」なのか、父親である僕と母親である妻からなる「私たち」なのかが曖味になりがちだなと思います。単数であるはずの「私」にいつの間にかパートナーである妻を巻き込んでしまっていたり、複数である「私たち」として考えていたはずが、いつの間にかそこに妻が含まれていなかったり。
そうやって他者を虚ろにしてしまうこと、それは文章を書くうえでごくごく基本的な、エッセイであれフィクションであれ踏まえておくべき危うさだと思うのですが、エッセイとかいま書いているような公開を念頭においた書簡や日記は、そこに書かれていることがかなり事実としての信憑性が高いものとして読まれるから、実際事実性は高いのですが、書き手の事実性と書かれる側の事実性がきれいに一致しているとは限らず、またその内容によっては文責を負い切れない部分があります。つまり、どこまで書くか、という話です。」36-7
「半年に一度くらい、どうしても悪い考えから逃げられなくなるタイミングがあって、つい先週がそれでした。心配した友人が食事に誘ってくれて、家にいてもいい方向にはいかないからと、夕方に家を出たのですが、あー、このままどうにかして消えることはできないだろうか、と考え始めてしまいました。電車の中で涙をこらえるのはなかなか大変で、そういうときは目を大きく見開いて少し上を向き、電光掲示板の案内に集中することで気を散らします。こういうときにマスクは便利です。誰も自分のことなんか気にしてないと思いつつ、やっぱり目がうるうるしている人間がいると、気づく人もいるようで、この前は東京駅から中央線に乗っているとき、目の前に座った人からぎょっとしたようにじろじろと見られました。
電車を降り、スーパーでお惣菜を選んでいるときに、背中についていた黒いものがスッと離れた感じがして、友人の家に着く頃にはだいぶ軽くなったのですが、どうにも気持ちの切り替えが苦手で。まあ季節性のものなのかもしれません。
私はどうやら言葉を言葉通りに受け取りすぎるところがあるようで、いつもそこでつまずいています。相手が言ったあれこれを、自分の中の貧相な辞書に当てはめるのです。そこには自分が知る・思う意味しか書かれていないので、相手の真意というのはわかりません。でも、言葉という「確か」だと思っているものに頼ろうとして、それ以外を見ていない。人が態度で語っていることは案外多いよ、と友人が教えてくれたのですが、コロナ禍で人と対面で向き合うことも難しくなり、より言葉に頼る傾向が自分の中で強くなっているのかもしれません。かといって、面と向かってマスクさえ外せる相手との関係がスムーズかといえば、そっちの方が難しかったりします。
前回、雪の日に外にいたと書いたのですが、あのとき歩きながら行き場がなくて、このまま滝口さんとAさんの家に行こうかなとも頭をよぎりました。二人は驚くでしょうが、きっと暖かい家に招き入れてくれて、私の話を聞いてくれたと思います。おそらくそうなったであろう、という想像だけで私は十分癒されるような思いがして、そのまま迂所を歩き回っていたのですが、そんな話をAさんにすると、来てくださればよかったのに、と言ってくれました。「いつでもですよ」というAさんの言葉が嬉しくて。滝口さんもきっと同じように言ってくれると思いますが、まあ常識的に一歳のお子さんのいるお家に、二十二時とかに突然行くわけにはいかず。でも、嬉しかったのです。」110-112
「日記というのは、それがいつ書かれるにせよ、形式としてはある一日の日付のもとに留まり、囲われる文章で、その文章はその前後の日付から隔てられています。だから、その文章のなかに書かれることも、その日以降の時間へと延びていかなくてもいい(延びていったっていいと僕は思いますが、少なくとも延びていかなくてもいい)。
それは書かれたことと文章とのあいだにある時間の幅や、文章が含む時間が短いということだと思います。そしてその短さのもとにある文章に、瞬間的な輝きとか勢いのようなものが付帯するのではないでしょうか。一子さんの日記の鮮烈さもそういうものだと思います。
一方で、文章というのは、常に書くと書かれるとのあいだに時差があり、それが大きなものになればなるほど、書かれる対象が持つ鮮やかさは失われ、鈍く、野暮ったくなるものだと思うのです。日記からエッセイへという変化は、この時間の幅に伴う鈍化を引き受けることでもあるのではないか。まさに「時間がかかる」。もちろん、その鈍化と引き換えに得られる、書けるようになることがあって、その書き方でなければ書かれなかった文章、替えの利かない文章になる。「愛は時間がかかる」の文章もそういうものだったと思いますが、一子さんが長らく日記とエッセイの狭間で煩悶していたのも、この書くことと時間にまつわる鈍化、そしてその引き換えにかかわる問題だったのではないか、と思い至ったのでした。」198-9


