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@bunkobonsuki
2026年6月9日
母性のディストピア 2
宇野常寛
『母性のディストピア』第二部となる「発動篇」では、押井守の作品群を扱いながら、情報社会における『母性のディストピア』の超克の試み、そして失敗を記述する。
第一部の「接触篇」でも宮崎駿、富野由悠季の二人が取り上げられ、そこでも『母性のディストピア』への敗北が語られる。押井守は彼らより思想を一歩先へ進めていたが、結局は敗北してしまうのだ。
戦後アニメーションの巨匠たちが挑み、敗北していった<母性>——現実ではアメリカという強大な権力(ビッグブラザー)として、アニメでは身近な母性的キャラクター(ヒロイン)として現れる<母性>。
<母性>の手のひらの上で、矮小な父として振る舞うしかなかったのが、戦後のアニメーション史なのだ。
では、現代のアニメーションどうだろう。
今のアニメは百合アニメと呼ばれるジャンルが人気を博している。戦後アニメーションでは<母性>を備えたキャラクター(ヒロイン)として表現されていた者同士が関わり合い、恋愛している。
矮小な父のポジションが女性キャラクターに変換されただけ、という見方もできるだろう。けれども、百合アニメは<母性>の扱い方という点で戦後アニメーションから何か違うものを感じる。
ディストピアを形成した<母性>同士の共存か、はたまた衝突か。アニメーションは戦後を抜け出せるのか。あるいは強化してしまうのか。それは現実をどれだけ改変できるかという問いでもある。
本書における最終的な結論は、<母性>から抜け出すために現実を変えるというものだ。アニメーションという虚構。その虚構を豊かにするには、現実を豊かにすることが求められるのだ。