

-ゞ-
@bunkobonsuki
文庫本を中心に読んでいます。
noteでも本の感想文を書いておりますので、もし良かったら参考に。
- 2026年4月12日
ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルーブレイディみかこイングランドの都市・ブライトンに住む著者が、家族との対話の日々を綴った名著。本書のタイトルを目に、耳にした人は多いだろう。 私は本書をサッカーの文脈で語りたいと思う。 スポーツのリーグは、国の様相を反映している。イングランドにおける代表的なスポーツリーグといえば、サッカーのプレミアリーグである。外国人選手を呼び込むことで世界一のリーグの地位を得たこのリーグは、同時に外国人によって支えられているという側面もあった。 本書で語られるのもそういうことだ。 イングランドが外国人や移民によって支えられ、労働において脅かされ、格差が生じる。外から来た者たちによる繁栄と、自国民のアイデンティティの揺らぎ、それがプレミアリーグの様相とリンクするように見えた。 余談だが、本書の舞台となる2018年はワールドカップが開催された年でもある。イングランド代表は3位決定戦に敗れ、4位となった。 3位決定戦で戦ったベルギー代表は、プレミアリーグに所属する選手が多いチームだった。あの試合は、イングランドという土地の課題を端的に表現していたのかもしれない。 - 2026年4月9日
私的読食録堀江敏幸,角田光代二人の作家が、小説中に出てくる食事について語る読書録。かわるがわる書き手が交代していくので、読み味もその都度違ったものになっていく。 本書は単なる食事談にとどまらない。小説というフィクションが、時に現実を追い越す体験を提供できることを示している。 小説や童話で出てきた食べ物——うどんやラーメン、チョコレート——は、現実と同じはずなのに、架空の存在のように思える時がある。 例えば。志賀直哉の『小僧の神様』。 本作では寿司を逆さまにして食べるくだりがある。この時の描写が本当においしそうなので、読み終えた私はすぐに寿司を食べに行ってしまった。でも、そこで食べた寿司は志賀直哉の文章ほど優れてはいなかった。 現実にあるものを描写しながら、時に現実では成し得ない味を提供する。小説には現実を虚構にしてしまう魅力が詰まっている。 - 2026年4月5日
コンテンポラリーアートライティングの技術ギルダ・ウィリアムス,GOTO LAB美術批評の書き方を指南する本書。 タイトルだけ見ると小難しいものに思える。 「コンテンポラリー?」 「アートに関するライティング?」 「ビジネスメールの書き方」「小説の書き方」を扱う文章術の本に比べても、本書は読者に縁のない世界を扱っているように見える。 「美術批評なんて、書く機会はない」 そういって本書を逃すのは惜しい。美術批評を書くということは、普遍的な文章術を学ぶことでもあるのだ。 美術批評では作り手の来歴、作品の解説、自説とその根拠を述べるわけだが、これは論文や自己PR文の書き方に似ている。 論文も先行研究の解説をして、自説へ行く。 自己PR文も自分に起こった出来事を説明して、自説(PR)を書く。 書く順番は書き手によって前後するとしても、文章の構造は近い。 本書には現代美術という「書き手にとってもわからない」ものを解説する例文がたくさんある。「読み手が知らない世界をどう解説するか」という点で、美術批評の文章は書き手のお手本なのだ。 文章術を学んでみたいという方へ、私はこの本をオススメする。難しいようで易しい不思議な文章術本。 - 2026年4月3日
まず牛を球とします。柞刈湯葉本作は短編集である。一編につき10〜40ページ程度の、ごく短い作品群が連なるのだが、どれも現実にある倫理問題を扱っている。 SFという虚構を使って現実を論じるのは難しい。「所詮、ありえない仮定でしょ」と読者に思われる危険があるからだ。倫理を問うためにはあり得そうな話を持ってこないと成立しない。 本作はその難しさを克服している。 どうやって克服したのか? 解説にも書かれているが、作者・柞刈湯葉は「問題を見つけてくるのが上手い」。あり得ない仮定の世界観にふさわしいような、その世界で論じられるような問題提起をする。 その世界観で起こる問題は現実にも一部接続されうるものである。表題作『まず牛を球とします』では、牛が大豆のような扱いを受けているという話が出てくる。バカバカしいと思う反面、生成AIによって子どもがサーモンのことを「刺身として川を流れていると思っていた」話を聞くと、笑えない。 非現実から現実へと繋がる絶妙な問題提起の数々が、この一冊に詰め込まれている。 - 2026年3月31日
差別はいけない。 では、なにが差別なの? 本書では、「差別」という二文字の実態に迫ろうとする。差別とは難しい問題だ。差別と聞くと、人は合理性から程遠い感情による行いだと考える。 しかし、実際は違う。合理的な判断であっても差別となりえるのだ。「こういうエビデンスがあるから、この人には権利を与えない」という物言いも可能になってしまう。 現代社会は、何かと合理性を重視する気風がある。合理性のために個人を差別するのは当たり前だ。学歴差別、人種差別、性別差別etc。差別は、決して遠い出来事ではないのである。 特に面白いと思ったのは、天皇制度に関する部分である。なぜ差別を論じるにあたって天皇が出てくるのか。その詳細は本書に譲るが、「差別的な制度のもと生まれた天皇によって差別解消が謳われている」という主張は、読んでいて、差別の複雑さを思わされた。 - 2026年3月29日
- 2026年3月26日
ノックの音が星新一ノックの音がした。 本作は、すべての作品の書き出しが上記の一文で統一されている。それでいて先の展開が読めない。一発芸に堕ちかねないアイデアを、星新一の力量がモノにする。 展開の読めなさの理由は、ノックにある。「ノックの音」が重要だ。家を訪う合図でも、ブザー、インターフォンでは話に広がりを持たせられない。 ノックには人の心理が現れる。叩く扉の種類、扉の叩き方。動きや物の描写だけで、状況と人物を表現できる。 あとがきを読み終え、次の話がなくなったときでも、頭の中にノックの音がした。 - 2026年3月26日
文学部という冒険田島正樹文学部の素晴らしさを説くとか、「文学部ってこういうふうに役立つんですよ」とか、世間に対して文学部の良さを宣伝する本は多い。 本書もある意味でそうした本の系譜に連なるかもしれない。しかし、本書は彼らと雰囲気を異にする。 本書は、「文学部という学問を学んだらどんなことができるのか実践してくれている」本だといえよう。文学の始まりから近代芸術まで語り、さらには現代の作品批評までこなしてみせる。 とにかく、カッコいいのだ。迎合しない。徹底的に自分たちの方に引き寄せる。 文学部に入ったら役に立つとか、世間的な損得勘定は気にしない。ただやりたいことをとことん見せている。そんな本である。 作品を語るという、一見ありふれた行為のプロフェッショナル。それが文学部なのか。 - 2026年3月24日
遅いインターネット宇野常寛読み終わった終章——遅いインターネット 本書の第一章から仄めかされてきた「遅いインターネット」の正体は、ウェブマガジンである。 「革新的なSNSとかじゃないの?」と思われた方もいるだろう。しかし、かつて"革新的"とされた各SNSの民度を顧みれば、ウェブマガジンという形態は真っ当な選択である。マガジンは、画面スクロールを伴うSNSに比べて情報が残る。残るからこそ、長く事柄について考えられるのだ。 本書で提示される遅いインターネット論は、速いインターネットと対比する形で論が進められる。 速いインターネット——それは、まるで自転車のペダルを漕ぐごとき回転速度で話題が変わるSNSやニュースサイトを指す。考えるために情報を閲覧していたはずの人々は、いつしか考えないために情報を摂取するようになった。 そうした、考えないためのツールとなったインターネットを「考えるため」の存在に戻す試みが、遅いインターネットなのである。 媒体として「遅いインターネット」はある。 だが、その思想や姿勢は他の媒体でもやれるはずだと私は読みながら思った。インターネットの使い方は個人が操作できる。 インターネットという仮想の車。 速度の調整は、その人の意思にかかっている。 - 2026年3月24日
遅いインターネット宇野常寛第三章——21世紀の共同幻想論 本章は吉本隆明を紐解くことから始まる。 吉本隆明は戦後日本を代表する思想家で、彼の著作の中に「幻想」について触れられている部分がある。やがて吉本の思想はコピーライター・糸井重里が受け継がれていく。 モノ消費からコト消費へと移行する社会を、糸井重里は巧妙に適応してみせる。対立する二つの"消費"が市井の人々の中を行き来していることを発見し、彼が運営するサイト「ほぼ日」はECサービスに変貌した。 「二つの"消費"が市井の人々の中を行き来」と書いたが、これはInstagramの映えが該当する。映えのためにモノを買い、映えさせるための行動=コトを消費する。コトもモノも渾然一体となった現代の消費行動。 「何かをしている」という幻想に支配された日本人。そこから脱却するための結論、「遅いインターネット」とは何か?次章でついに明らかになる。 - 2026年3月24日
遅いインターネット宇野常寛読んでる第二章——拡張現実の時代 物語を語られるより、物語を語る方が良い。 人々の間で思想の転換が起こり、人はSNSで自分のことを語り始めた。こうした指摘から本章は始まるのだが、これがこわい。 物語を借りて自己を語る。この手法は、まさに私がnoteでやっていることそのものだからだ。自分で選び取ったことだと考えていたが、実は時代に選ばされていたのではないか——。背筋が凍る。 人は「自分を語る」につれて、自分の行動を狭めてしまった。Googleを活用する時、大抵はGoogleマップで行きたい場所を検索したり、食べログで行き先の飲食店を決めたり、予め行動を決めることにしか使わない。目的地に至るまでの景色を見ることもしなくなった。 拡張現実の嚆矢となったポケモンGOは人々に"景色"を見せる。本来行かないようなところでも、ポケモンGOでポケモンを捕まえるという名目で行動範囲を拡大させた。それでも、ゲームの研究が進んで効率的な動きが定まると、人は元の通りに戻っていく。 人が営む日常を拡張していく試み。遅いインターネットはそうしたものであると著者は言う。その正体は終章まで持ち越されるようだ。 - 2026年3月24日
遅いインターネット宇野常寛読んでる第一章——民主主義を半分諦めることで、守る 何やら不穏かつニヒリズムな題名だ。 だが、本章の本懐は「守る」ことにある。決して「民主主義なんてくだらねー」というような投げやりな態度ではない。むしろ、著者の思考はその反対を行く。 どうやったら現状の民主主義を発展させられるか? 今の民主主義では「anywhereな人々(どこでも生きていける存在)」と「somewhereな人々(どこかでしか暮らせない人)」の対立は避けられず、選挙では後者が支持した方が勝つ。本書では2016年のドナルド・トランプ当選を例に引いている。まさか、2024年に再び同じようなことか繰り返されるとは。 地域に根ざす人々から見たどこへでも行く人々への悪感情を、民主主義は止めることができない。著者はそんな民主主義を改造・発展することを促す。台湾では政府と市民が激しく意見を交わしたことをきっかけに、インターネット上で議論をするSNSが出てきた。 インターネットで議論をする——現行のSNSでそんなことができるのか。冷笑に近い疑問に著者はこう提唱する。 「いま必要なのはもっと『遅い』インターネットだ。それが、本書の結論だ」 - 2026年3月24日
遅いインターネット宇野常寛読み始めた序章——オリンピック破壊計画 まるで、梶井基次郎の『檸檬』の現代バージョンだ。そう思わされる書き出しだった。日本が迎える二度目の東京オリンピック、その象徴である新国立競技場を前に、著者は「こんなものは壊れてしまえばいいのに」と胸の内で考える。 採算の取れないオリンピック事業をするからにはそれ相応の責任とビジョンが必要だ。しかし、2020年の東京オリンピックではそんなものはなかった。誰かが誰かを訴え、国の未来のために国全体で整備を行うというわけでもなく、単なるイベントとして消費しようとする、この国の有り様。 それでも著者は書く。 「茶番が反復される構造を壊す」と。オリンピックで浮き彫りになった、何の意味もない無為な茶番を繰り返してはならない。私はここに強い共感とを覚えた。 - 2026年3月22日
ポロック生命体 (新潮文庫)瀬名秀明SF小説を読むことは、「ゼロの轍を踏む」ことだと思っている。現実で一の轍、二の轍を踏む前に、架空の物語で失敗をしてくれているのだ。 本作は、人工知能の存在をめぐって人間の輪郭に触れる短編群だ。人工知能が発達するにつれて、「人間らしい営み」とされてきた数々は、実は人間に限ったことではないと判明した。 表題作『ポロック生命体』は、亡くなった画家が「亡くなる数年前からAIを使用していた」と判明するところから始まる。これは現実にもありえること、もう起きているであろうことだ。 ここで踏んでくれた轍を、どう解釈するか。 本の読み手を試す作品である。 - 2026年3月20日
五十八歳、山の家で猫と暮らす平野恵理子定年が近い著者が、山で暮らす日常を書いたエッセイ。エッセイの内容は時系列順ではなく、各章で個別の事例を扱っている。虫のことであれば虫の章、雪のことであれば雪の章、という感じ。 表紙が愛らしい猫で彩られているため、中身も猫を中心にしている——のかと思いきや、そうでもない。 文庫版のあとがきで触れられているのだが、元々本書の単行本では猫の章がなかったそうである。「猫のことがロクに書いてない」と編集者に言われ、追加したそうな。 猫の章がないとなると、印象がだいぶ変わる。猫は他の章でも登場するが、どれもひょっこりさりげなく出てくるため、脇役である。主役回がないのはさびしい。 そういう意味では、主役会を追加したこの本は「シン・五十八歳、山の家で猫と暮らす」と言える。 - 2026年3月20日
- 2026年3月17日
昭和の文豪多しと言えど、三島由紀夫ほど「昭和の文豪」を体現した作家はいない。昭和に生まれ、昭和と生き、生涯を一つの年号に捧げた彼は、その振る舞いも昭和らしかった。 かつて作家は世間と離れたところにいたが、三島由紀夫がテレビやラジオといったメディアに出演するようになると、三島以後の作家はメディア出演を当たり前のこととしてこなすようになった。 メディアが全国に膾炙し、活性化した昭和という時代。その申し子たる三島は瞬く間に時代の寵児となったのである。 そんな三島由紀夫を「薔薇」の二文字から評するのが本書である。昭和の文豪たる三島に通底するモチーフはなんなのか。創作において西洋的な思想を取り入れながら、努めて日本由来のものに書き換えてきたこの作家の裏側を探る。 - 2026年3月15日
思い出トランプ向田邦子「おそろし」という古語がある。 『思い出トランプ』は「おそろし」い小説である。その言葉の向かう先は、物語でもあり、著者自身でもある。私は読み終えた時に「よくこの作品群を生み出してくれた・・・・・・!」と思う。 本作に収録されている小説は、どれも10〜20ページ程度の短い物語である。しかし作中人物たちの動きや心情が長編レベルで脳に入り込む。その鋭利な語り口と手腕に恐ろしさを覚えるほどだ。 短編の終わりは、どれも花開く寸前で終わる。おそらくこうなるだろう、しかしそれを描かない。この手法は新津きよみの『彼女たちの事情』でも見られたが、私はこういう終わり方をする短編が好きだ。 - 2026年3月12日
中世政治思想講義鷲見誠一中世ヨーロッパにおけるキリスト教および宗教権力の変遷と、近代思想の萌芽を記した本。 サブタイトルに「ヨーロッパ文化の原型」とあるように、今我々がヨーロッパ(あるいはアメリカ)と聞いて思い浮かべる思想・習慣の数々は、中世キリスト教が関係している。 例えば、個人主義。「私は私、あなたはあなた」というような個人主義は、実はもともとヨーロッパにあったわけではない。中世では人は複数のコミュニティーに所属しており、コミュニティーの属性から個人が認められていた、集団に帰属するという点では、日本の村社会に近い状態だった。それが近代になってナショナリズムが形成されてくると、「個人としての人」が出てくる。 また、この本は一種のリーダーシップ論として読める。 「権力そのものにカリスマが付く」という考えは、現代社会でも共感されるのではないだろうか。「立場が人を作る」とあるように、人は権力者に対してバイアスが働く。そうした状態からどのように権力の運用が変わっていったのか読みながら考えるのも楽しい。 - 2026年3月7日
なぜ電車は人を惹きつけるのか。電車をデザインする著者の口から語られる、デザインの奥義がここにある。 本書を手に取ったのは、たびたび話題になっていた「撮り鉄」の心理を知りたかったからである。彼らは電車をその目に焼き付け、写真に収めるため、時には不法の手段に手を染めるまでに至る。その心理をデザインの観点から知りたかった。 実際のところ、内容は内装に焦点が当てられ、外装に関しては記述が少ない。そのため狙い通りの読み方はできなかった。しかし、内装にこれだけ力を入れるのだから、外装だって人を惹きつけるだけの注意を払うだろう。 思えば、日常において電車の内装を目にする時間は多いが、外装を目にするのはごく僅かな時間しかない。「電車を撮る」とは語られることの少ない外装に目を向ける一つの機会なのか。
読み込み中...

