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@bunkobonsuki
文庫本を中心に読んでいます。
noteでも本の感想文を書いておりますので、もし良かったら参考に。
- 2026年6月26日
プレゼント伊坂幸太郎,宮部みゆき,恩田陸,梨木香歩,江國香織,町田そのこ,米澤穂信「新潮文庫の100冊」50周年! その記念碑として、現代を代表する作家たちによる短編集『プレゼント』が先日店頭に並んだ。 初回限定カバー版には作家たちの名前が並んでいるのだが、その豪華さには目を見張る。 伊坂幸太郎、江國香織、恩田陸、梨木香歩、町田そのこ、宮部みゆき、米澤穂信・・・・・・。 どの名前に注目するかは、読者によって分かれるだろう。単に豪華なだけではなく、世代の違う作家を並べたところに面白さがある。 内容だが、意外とファンタジーである。 SCPやback roomsを思わせる作風のもの、探偵ものかと思えばそうでもないもの、怪談に近いものなど、「この人ってこういうことするんだ」という驚きがあった。 - 2026年6月23日
「データベース消費」という概念を導入し、オタク文化を紐解きながら、"自由な批評"を標榜する現代文学批評の古典。2000年代に刊行された本書は、流行り廃りが激しい今もなおその有効性を失わない。 「データベース消費」とは、「まぁ、このキャラやストーリーはだいたい◯◯系だよね」という消費の仕方である。「黒髪でストレートロングヘアーのキャラクターなら文学少女だ」というふうに、キャラクターの見た目だけでどういう人物か査定できる。ある意味で偏見ですらある。 この消費の仕方は日本の創作を大きく変えた。 世の中には「原作は知らないけど二次創作でたびたび見かけるから、だいたいどんな存在か知っている」キャラクターがいる。 「東方プロジェクト関連のゲームを知らなくても、『◯◯幻想入りシリーズ』でキャラクターを知った」 こんなことは誰しも経験したことがあるのではないだろうか。もっといえば、これら二次創作は一次創作である原作に対する見方をも変えてしまう。 創作はもはや原作者だけのものではない。 オープンコード的なものとして原作は扱われ、主体は二次創作をするオタクたちに変わった。それは一言でいえば著作権の侵害だが、非倫理的な行いであるにも関わらず許容され、それが文化にまで昇華されている。 - 2026年6月22日
オタク的想像力のリミット伊藤瑞子(編集),宮台真司,岡部大介,岡部大介(編集),辻泉,辻泉(編集)日本のサブカルチャーを牽引してきたオタクという存在。しかし、「オタクはどのような存在か」という点で、オタク理解はまだまだ進んでいない——。 そのような問題提起から、本書ではオタク研究をしてきた者たちによるオタク論が展開される。 オタクという言葉の幅は広い。 現代においては、サブカルチャーに触れていればとりあえず「オタク」として扱われる。ファン、推し担と同じような存在として認知されているようである。 オタクの見た目も変遷している。 秋葉原で鉢巻を巻いた太った中年の姿より、前髪の長い学生の姿の方が、現代では現実的ではないだろうか。前者は古の時代のシンボルとして描かれるばかりだ。 しかし、そのシンボルも昔は生々しい存在であったことを、本書は伝えてくれる。 - 2026年6月16日
くらしのアナキズム松村圭一郎アナキズム(無政府主義)は、革命や政府崩壊といった極限状態にあるのではない。むしろ、とても身近なものなのだ。 日常生活においてアナキズムはどのように発露するのか。文化人類学の知見を活かし、歴史を振り返りながら考える本。 ここからは感想。 日本で戦国時代に突入した時、国全体が疲弊しなかったのは、本書における「アナキズム」によるものだと思う。中央集権が機能しなくなった結果、大名と呼ばれる地域の主が台頭した。地域ごとに管理が行き届き、時に併合され、徐々に統一へ向かっていった。 徳川幕府は世界的に見ても類を見ない長期政権として知られるが、それは戦国時代に各所で大名による統治が発達した=アナキズムによるところが大きいのではないか。 中央集権とアナキズムは対立して考えられる概念だ。しかし、成熟した中央集権はアナキズムを経て達せられるものだと思う。 - 2026年6月16日
金閣寺三島由紀夫切ない物語だ。 読み重ねるたびにその想いは強くなる。 『金閣寺』は、吃音の少年・溝口が金閣寺を焼くまでの過程を描く物語である。最初に読んだときは「人間が狂人へ変貌する物語」として解釈していたが、今では「すべての逃げ道を封じられた人間が、それでも生きることを諦めなかった物語」として読んでいる。 作中、溝口は世俗に裏切られ続ける。 幼少期は母の不倫を知り、その母は自分を金閣寺の主へと誘導しようとする。 親友の鶴川は明るい存在として信頼していたが、彼の内心は溝口の創造していたものと真逆だった。 「お寺」という、世俗から隔てられたはずの世界でさえ肉欲や妬み嫉みの影が差す。 溝口は世俗から逃れようと、金閣寺を神格化する。実物の金閣寺より美しい想像上の金閣寺を夢想し、世俗から逃れるために出奔を行い、なんとか世間から逃げようとするも、捉えられてしまう。 やがて、溝口は「金閣寺こそがすべての元凶である」とみなすようになる。南泉斬妙という公案が作中に出てくるが、これは「人を惑わす猫をある僧が斬って捨て、僧は別の僧に『どうすれば良かったか』を問い、問われた僧は頭上に履をかかげる」という話である。 南泉斬妙における猫=溝口にとっての金閣寺である。金閣寺に惑わされる人——金閣寺に魅せられた父、息子を主にしようとする母、寺の中で起きる門弟の妬み、師匠との確執。 それらすべてを消し去るには、「金閣寺を焼かねばならぬ」。 かつて自ら神格化した金閣寺を、その妄執の元とみなして焼く。南泉斬妙では猫を斬った僧が他者に意見を聞いていたが、溝口に他者はいなかった。 - 2026年6月15日
檸檬(れもん)梶井基次郎教科書で読む文学作品の中でも、際立って難解の感を抱く『檸檬』。梶井基次郎の代表作であると同時に、異色作でもある。 本書は梶井の作品を集めた短編集である。 その多くは平易で、家庭の瑣事について述べるものだ。読み終えて思うのは、『檸檬』も平易な作風だというところである。 『檸檬』では語り手が丸善へ行き、本の上に檸檬を置く。筋書きはそれだけなのだが、語り手の開陳する思想が読者に「はてな」と思わせる。 読者は、書き手がすべてを把握して書いていると想定して読む。分かりづらいのは、書き手の技量の問題だと片付けてしまいがちだ。 でも、『檸檬』は分かりづらいことを分かりづらいまま、本人にも分からないまま書いたのだと思う。漠然とした不安——病に臥した梶井、自殺した芥川など、「言葉にできないなにか」を文豪たちは訴えている。 知らないものを知らないまま書いてみる。 異色な試みが結実したのが、『檸檬』なのだ。 - 2026年6月11日
月と六ペンスサマセット・モーム,William Somerset Maugham,金原瑞人架空の画家・ストリックランドの人生を、ストリックランドの友人である主人公が語る物語。これだけ書くと質素だが、その話はかなり現代的だ。 ストリックランドは生前売れない画家として暮らしていた。死後、評価は一転して、彼の描いた絵画は巨額の値で取引されるようになる。まるでゴッホのよう。 なぜストリックランドが評価されるようになったのか。実は、この物語にはもう一人の重要人物がいる。ストルーヴェという人物である。彼は的確な批評を下す一方、凡庸な画家でもある。 ストルーヴェはストリックランドを尊敬しているが、ストリックランドはストルーヴェの妻を寝取り、遠くへ行ってしまう。 当然だがストルーヴェはストリックランドを憎む。しかし、それでも、彼の天才だけは認める。ストリックランドが死後に評価されたのは、(作中では明示されないが)彼の働きによるものだろう。 私は、この物語を「ストリックランドを語るという体で、ストルーヴェを顕彰する物語」だと思っている。かつて、妻を寝取られ、みっともなく醜態を晒す凡庸な画家。しかし、そんな人物がいたからこそストリックランドは世に出たのだ——。 独創的な天才は単独では成功しえない。 そのそばには、苦しみながらも寄り添う理解者がいるのだ。 - 2026年6月9日
母性のディストピア 2宇野常寛『母性のディストピア』第二部となる「発動篇」では、押井守の作品群を扱いながら、情報社会における『母性のディストピア』の超克の試み、そして失敗を記述する。 第一部の「接触篇」でも宮崎駿、富野由悠季の二人が取り上げられ、そこでも『母性のディストピア』への敗北が語られる。押井守は彼らより思想を一歩先へ進めていたが、結局は敗北してしまうのだ。 戦後アニメーションの巨匠たちが挑み、敗北していった<母性>——現実ではアメリカという強大な権力(ビッグブラザー)として、アニメでは身近な母性的キャラクター(ヒロイン)として現れる<母性>。 <母性>の手のひらの上で、矮小な父として振る舞うしかなかったのが、戦後のアニメーション史なのだ。 では、現代のアニメーションどうだろう。 今のアニメは百合アニメと呼ばれるジャンルが人気を博している。戦後アニメーションでは<母性>を備えたキャラクター(ヒロイン)として表現されていた者同士が関わり合い、恋愛している。 矮小な父のポジションが女性キャラクターに変換されただけ、という見方もできるだろう。けれども、百合アニメは<母性>の扱い方という点で戦後アニメーションから何か違うものを感じる。 ディストピアを形成した<母性>同士の共存か、はたまた衝突か。アニメーションは戦後を抜け出せるのか。あるいは強化してしまうのか。それは現実をどれだけ改変できるかという問いでもある。 本書における最終的な結論は、<母性>から抜け出すために現実を変えるというものだ。アニメーションという虚構。その虚構を豊かにするには、現実を豊かにすることが求められるのだ。 - 2026年6月8日
母性のディストピア 1宇野常寛私が宇野常寛の書籍にはじめて接したのは、『母性のディストピア』だった。読み始めて数分、その激越に恐れ慄き、当時は戦後の思想史もまったく知識がなかったので、早々に読むのを諦めた。 『リトル・ピープルの時代』『遅いインターネット』『庭の話』など他の書籍を読んで、改めて本書を読んでみようと思い至った。 『母性のディストピア』は二部構成となっており、「接触篇」が第一部、「発動篇」が第二部となっている。接触、発動という語彙は、富野由悠季のアニメ映画『伝説巨神イデオン』から来ている。 タイトルに関連していることもあってか、「接触篇」では富野由悠季の思想史に紙幅を割いている。近年の富野作品は人情的な温かみを感じさせるものが多く、「白富野」と呼ばれることもある。これはかつて過激な作風を志向した「黒富野」と対比される表現である。 だが、本書を読むと「白富野」の正体とは諦念という解釈が浮かぶ。戦後の世相に対して苦しみながら作品に思想を込めていたが、90年代を境に現実に打ちのめされた結果、白くなってしまったのだ。 - 2026年6月7日
テーマパーク化する地球東浩紀『テーマパーク化する地球』は、東浩紀が2010年代に展開したエッセイ・評論・対談を集めた本である。 表題の『テーマパーク化する地球』では、中国の都市・大連を訪れたことをきっかけに、なぜ都市がテーマパーク的な要素を取り入れたのか、その必要性を考察する。 後の著作『平和と愚かさ』と本書をセットで読むと、内容の乖離に驚く。本書では「忘れない」がテーマになっているのに、『平和と愚かさ』では「忘れること」がテーマとなっている。 二つの著作を読み比べてみて、私は「ほどよく記憶するというのが平和に必要なのではないか」という、消極的な態度に至った。 例えば新海誠の『すずめの戸締り』では3.11の出来事が出てくる。しかし、それはさらりと出てくる。あの映画を観た私は「ああ、あった」という感情に満たされた。 当時の私にとって3.11は半ば歴史であった。体験はしたが、どんな体験であったか、断片的な光景を覚えている程度だった。そんな半歴史的体験を、確かな体験として呼び戻されたのである。 東浩紀の語る『平和と愚かさ』では戦争を主題としているので、災害を扱った『すずめの戸締り』の手法が適用できるとは限らない。 しかし、「ほどよく記憶する」という点で『すずめの戸締り』のような作品はもっと注目されるべきではないかと思う。 - 2026年6月4日
増補 日本語が亡びるとき水村美苗英語が世界の普遍語となった今世紀を生きる我々は、自国語とどう向き合うべきか。水村美苗が己の経験と日本語の歴史を総合して読者に問う。 何度か読み、そのたびに満足感と暗い気持ちを抱えるのだが、今回読み終えた時はそれらに加えてある考えが浮かんだ。 英語の世紀は案外短命に終わるのではないか。 今、アメリカが暴走している。世界中に経済的牽制をしかけ、武力を恃んで中東と対立する。 英語圏の最大手たるアメリカが、暴走している。 各国がアメリカの母語である英語を使うことを避ける、そんな風潮が巻き起これば、たちまち英語は普遍語の地位から転落するのではないか。 そんな簡単にはいかないかもしれない。しかし、ロシアのウクライナ侵攻の時を思い出してほしい。あの時もキーウ(ロシア語による表記)→キエフ(ウクライナ語の表記)というふうに、表記を変更した。 国家間の対立、イデオロギーによって、その国が採用する言語が変わることだってあるのだ。このままアメリカが暴走を続ければ、英語の地位はどうなるのか。 - 2026年6月3日
人間たちの話柞刈湯葉表題作の『人間たちの話』は、人類が地球外生物に出会う話である。ただ、出会い方がとても「主観的」なのである。 生物の定義は、あくまでも地球に住む人類が作り出したものである。その定義も往々にして例外が現れ、混乱していく。地球外生物も、定義によって現れる存在なのだ。 私はこの話を読みながら、宇野 常寛の『庭の話』を思い出した。『庭の話』では、コロナウイルスと対峙した人類は人間同士の争いに没頭したということが書かれている。 『人間たちの話』で出てくる地球外生物もそうだ。目の前の現象を生物かどうか決めるまで、各国の思惑が絡み、駆け引きがされる。 現象を前にして人類は志を一つにしない。 これはフィクションではなさそうだ。 - 2026年5月30日
平和と愚かさ東浩紀平和について"考えない"本書の思想は、紀行文と哲学のハイブリッド的な文体で綴られる。 旧ユーゴスラビア、ウクライナ、ベトナムといった「かつて戦争があった場所」を訪れた著者が、その体験とともに平和について語る。 本書を読んでいくと、「平和とは異常事態なのではないか」という感想を抱く。平和の対概念として挙げられる戦争の方が、平常といえるのではないか。 現代において国家間の戦争は珍しいものではない。争うという点では個人間の諍いも戦争だ。そこまでスケールを縮小すれば、戦争をありふれた日常として処理することもできる。 争いを排した状況=平和とは、非日常に他ならない。 - 2026年5月29日
- 2026年5月28日
新編 人と人との間木村敏ドイツに渡って精神医学を学んだ著者は、日独で精神症状に差があることを突き止める。日本における精神的な病を、日独の精神容態の比較で明らかにする。 日本において、自己とは人と人との間にある"何か"が深く関係しているという。その"何か"とは義理であり、人情であり、責任でもあり・・・・・・とにかく言葉を変えて出現するのだ。 「どこまでが自分で、どこからが他者なのか」 こうした問いは、本書の"何か"から説明できそうな気がする。日本においては自他の境が"何か"によって繋がれており、それが日本では精神的疾患を引き起こすことがある。 現代の精神症状はより複雑だ。 なぜなら、対話型AIが登場したからだ。 一般的にAIは「気軽に相談できる他者」という理解をされるけれども、個人的にAIは「気軽に相談できる自己」だと思っている。 AIに義理はない。簡単に会話を打ち切れるし、弄ることもできる。そこには人と人との間に発生する"何か"がない。すなわち他者ではないことを示している。本書の刊行から数十年、AIによって、人はより自己を明らかにして、自己に没頭する時代を生きるようになったのだ。 - 2026年5月26日
リトル・ピープルの時代宇野常寛「ビッグ・ブラザーとはウルトラマンであり、リトル・ピープルとは仮面ライダーである。」 なんのこっちゃと思う一文である。しかし、本書を要約するとこの一文に収まる。 ビッグ・ブラザー(国民を管理する巨大権力)が力を失った時代において、リトルピープル(各地に点在する小さな主体)が出現した。本書は、日本のポップカルチャーを取り上げて時代の変遷を論じる。その代表がウルトラマンと仮面ライダーなのである。 本書では扱われていなかったが、HIPHOPの歴史にも導入できそうな視点だと感じた。HIPHOPの誕生は1970年代末期に誕生しており、ちょうどリトル・ピープルが勃興した時代である。 HIPHOPとはバビロン(自分たちを抑圧する権力)=ビッグ・ブラザーに反抗する反骨精神で語られることが多い。これは少し不思議なことだ。リトル・ピープルの時代において、なぜビッグ・ブラザーを滅ぼす物語が作られたのか。 今もなお、HIPHOPではバビロン=ビッグ・ブラザーを非難する音楽が作られ続けている。リトル・ピープルの時代において、ある意味ビッグ・ブラザーは希求されているのかもしれない。 - 2026年5月25日
滅びの鐘 (創元推理文庫)乾石智子「『復讐はいけない』なんて、綺麗事。復讐した方が気持ちがいい」 こんな言説をたびたび耳にする。 憎しみを断つには相手を滅ぼさんとするのが一番であると。確かに一理ある。 『滅びの鐘』はそんな憎しみの連鎖と断絶をテーマにした作品である。架空の世界で民族浄化が行われ、親を殺された主人公は敵を討つべく戦いに身を投じる。 本作はファンタジーであることが効いていると思った。魔法が存在する世界では、個人の復讐も大規模な殺戮へと変貌する。 たとえ最初は個人間の諍いだったとしても、やがて民族同士の対立に軸が移ってしまう。「なぜ、人は個人を憎み続けられないのだろう」と思ってしまう。 はじめの言説に戻る。 「復讐した方が気持ちいい」は、その先を考えなければ正当である。本作はその先を見せてくれる。血生臭い闘争と、融和までの道のりを。 - 2026年5月22日
叡智の覇者庵野ゆき『水使いの森』『幻影の戦』の先に待つ、火ノ国の運命とは——シリーズ三部作のトリを飾るのが、『叡智の覇者』だ。最後というだけあり、ボリュームも三部作最長。『幻影の戦』で登場しなかった人物も躍り出てくる、まさに集大成。 冒険活劇、政治劇と作品によって作風を変えてきた本シリーズ。本作は"科学劇"というべきか。ファンタジーにおける魔法の仕組みは、物語の展開を帰るキーとして機能する。 『叡智の覇者』では、「そもそもその仕組みはどうしてなり得るのか」を説明する。その世界における魔法を自明のものとして見るのではなく、科学の対象として研究する姿勢は、現実とは違う世界でありながら読者に強い共感を呼ぶ。 - 2026年5月18日
幻影の戦庵野ゆき前作の『水使いの森』が少女の冒険活劇とするならば、本作は姉妹の政治劇だ。国を統べるラクスミィ(ミイア)・アラーニャ姉妹は国の要所を巡ってカラマーハ帝家と戦争することになる。 作者が作品ごとにジャンル・作風を変えることはあるが、同じシリーズでここまで大胆に変化させるのは珍しい。それでいてシナリオに前作との齟齬が見られない。自然に話がつながっていく。 表紙の女性について語りたい。 はじめ、私は表紙の女性をタータ(ミイアの師匠)だと思っていた。ところが話が進むにつれて彼女がミイアだと気がついた。 成長し、逞しくなった主人公。その姿は師匠にそっくりだ。 - 2026年5月18日
水使いの森庵野ゆき一国の王女・ミイアは国を案じて旅に出る。 旅先で出会ったのは水を操る術を持つ存在・タータやその仲間たち。国を出た少女は、自分が知らない世界を旅して力を得、成長していく。 王道の冒険活劇でありながら、全編に淫靡な空気が底流している異色作だと感じた。本作には水蜘蛛族という種族が登場するのだが、読み進めていくにつれて彼らの習慣が性行為の暗喩にしか見えなくなった。 自分の煩悩ゆえか、それとも意図的なのか分からないが、読み終えた時は「いいのか!?これを全年齢に頒布して!?」と訝しんだ。
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