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@bunkobonsuki
文庫本を中心に読んでいます。
noteでも本の感想文を書いておりますので、もし良かったら参考に。
- 2026年10月10日
平成という時代の終わりになって、一人の文化人が安楽死を考えた。彼の名前は平成(ひとなり)。元号にならって名付けられた男は、元号の終わり際に死を想った。平成の彼女・愛の視点で語られるのは、時代の総括と一人の男の葛藤であった。 時代とともに殉じるというのは、どの国でも起きることである。日本においてそれは「元号の終わり」であろう。 元号は天皇の崩御によって終わる。その性質上、人々は元号の終わりは悲嘆にくれるものと相場が決まっている。しかし平成という元号においては真逆の様相を呈した。 天皇自らが生前退位によって元号を切り上げるという選択。それによって元号は終わりを告げられ、人々は安らかに時代を終えることができる。 平成という時代、平成という人物。 どちらも安楽に世の中から身を引くという点で共通しているのだ。元号も人も、安楽死を選択できるようになった。それが現代なのかもしれない。 - 2026年10月8日
アメリカン・ブッダ柴田勝家個人、家、村、国家。 どの規模でも「目を逸らす」「目を背ける」過去は存在する。柴田勝家が描き出すのは、そうした過去への対処法だと思う。 本作は短編集であり、物語の描き方も結末も多様である。ただ、どの作品にも「後ろめたい過去を持った存在」が登場する。 例えば、表題作『アメリカン・ブッダ』。 この作品はアメリカという国が成り立つ上で避けて通れない「インディアン(ネイティブ・アメリカン)の迫害」をテーマに、仮想空間Mアメリカの住人たちの分裂を描く。 「柴田勝家の作品は英語で読んでもそのまま通じる」 解説でこのようなことが書かれていた。その通りだと思う。後ろめたい過去に目を背けるという行為は、世界広しといえども誰もが抱えている悩みで、そこを抉り出す作家はいつ・どこでも読み継がれるであろう。 - 2026年10月7日
考古学者が発掘調査をしていたら、怖い目にあった話大城道則,芝田幸一郎,角道亮介「本当にあった怖い話」というドラマシリーズがあった。幽霊によるおどろおどろしい話たちが、幼少期の私を慄かせた。 年を経て「怖い話」とは幽霊が出てくるだけではないことが分かった。ヒトコワ、因習、モキュメンタリー。世の中には、いろんな種類の怖い話が存在する。 本書は一見すると怖い話に思えない。 当事者からすると恐ろしいけれど、はたから見たら喜劇に思える類の話である。だが、こうした話が一番怖いのだ。 時に墓場を調査する考古学者たち。彼らが体験した、墓場まで持っていきたい本当にあった怖い話。 - 2026年10月5日
〈共生〉から考える川本隆史「異なる人々と共に生きる」「多様な生き方を認める」といったスローガンは、なぜ空疎になってしまうのか。 それは<共生>という熟語がどこを、なにをさしているのかしばしば曖昧になるからだと思う。 本書では、社会倫理学者の著者が講義という体で<共生>を考える。生徒である私たちはそれを受け取り、考えていく。 もしもこの架空講義にレポートを提出しなければならないとしたら、私は「日本人とはなにか」というテーマで書くと思う。 日本には日本人だけでなく外国人も同居している、日本人は外国人に配慮しよう——などというけれど、では私たちは日本人といえるほど先人と繋がりを持っているだろうか。 今の日本人は昔の日本人と共生できているだろうか。実はそんなにできないんじゃないか。過去の日本人にとって私たち現代人は"外人"であって、<共生>の眼差しを向けられる対象なんじゃないか。 - 2026年10月5日
- 2026年10月2日
晴れでも雨でも昆虫学者小松貴とにかくフリが効いた文章である。 あれだけ批判したかと思えば、実は著者自身もその批判対象に属していた・・・・・・という「フリとツッコミ」が面白い。 本書は昆虫マニアである著者の四苦八苦(と理不尽気味な怒り)が綴られた一冊である。が、そうした怒りや苦しみがフリとして書かれているところに、著者の冷静な視点を感じることができる。 解説では著者の知人による「著者の奇人エピソード」が披露されているいるけれど、物書きおいては著者はかなりクールな人だと感じた。 - 2026年9月28日
本とは何か難波優輝読書をパフォーマンス(人に見せる行為)と捉え、独自の読書観を提示してくれる本書。読書はひとりで行う営みと見られることが多いけれど、案外他者が必要な行為なのだと思ったり。 本は単なる情報媒体を超えて、インテリアとして機能する。かつて円本は読書人の証として家に配置されていた。本棚も本を置く機能の他、それ自体が「いかに美しく飾れるか」という視点で見られることもある。 読書する人の姿勢でどれくらい読書歴なのか分かる・・・・・・そのうち、そんな研究が出てきそうだ。 - 2026年9月26日
冬に子供が生まれる佐藤正午あだ名は功罪両方の側面がある。 人が人を呼びやすくする一方、その人の人格をうやむやにしてしまう。 本作は、あだ名の「罪」を描いた小説といえよう。本を読み始めてからずっと、私は「登場人物は誰のことを語っているのだろう?」と疑心暗鬼に陥っていた。 本作にはマルユウとマルセイという二人の人物が登場する。どちらも苗字は丸田で、名前を省略してつけられたあだ名がマルユウ、マルセイなのだ。 作中ではマルユウとマルセイが区別なく使われる。マルユウのはずの人物がマルセイと呼ばれたり、逆もしかり。 作中の登場人物も、読者である私たちもどちらがどちらか分からなくなっていく。 本作の筋はこれだけではないのだが、私はこの点が非常に面白いと思った。人々が他者を語るうち、語られる側の人物像が変形していく。あだ名というよくある現象から、これだけのミステリが起きるのだ。 - 2026年9月25日
虚弱に生きる絶対に終電を逃さない女この世の中には、虚弱によって死んでいった人が結構いるんじゃないか。『虚弱に生きる』は、普段は意識しない「身体の脆さ」を意識させてくれる。 著者はとにかく虚弱である。 体力の消耗が激しく、またそもそもの体力が他者よりかなり少ない。定職に就くことなど夢のまた夢、それでも著者は文筆によってなんとか生きながらえてきた。 もしも著者に文筆がなかったら・・・・・・。想像するとゾッとする。著者のような境遇の人がいて、人知れず死んでいったのかもしれないのだ。 虚弱が生死に直結することを思い知らされる本文。それと対照的な、タイトル『虚弱に生きる』の力強さ。 - 2026年9月24日
コモンの再生内田樹コモン(共同体)が失われた現代において、いかにコモンは再生しえるか。2010年代後半から2020年代前半にかけて、著者はさまざまな質問に答えていく。質問と応答、その繰り返しの中から現れる『コモンの再生』という輪郭。 コモンが生きていた時代の人の家は、綺麗な印象がある。昔、家の鍵を忘れて家に入れなくなった時、近所のお婆ちゃんが一時的に自宅へ入れてくれたことがある。おやつにジュースに、今思えば実に気前よく振舞ってくれた。 これまた別のお婆ちゃんのお話だが、遠いところに住んでいる祖母の家も清潔だった。「掃除なんてしてない」と言っていて、当時は謙遜だと思っていたが、もしかしたら本当に掃除していなかったのかもしれない。 コモンとは誰かを迎え入れることである。 だから見ず知らずの人間を家にあげることだってある。その時に粗相がないよう家の清潔に保つ必要があったのではないか。 いつ、誰が来ても良い準備。 それはコモンの美徳であり、時代の下り坂で失われた習慣であった。 - 2026年9月22日
構造素子 (ハヤカワ文庫JA)樋口恭介父(ダニエル)が遺した未完の草稿を息子(エドガー)が手に取り、続きを書き出す。『構造素子』はこのように始まる。 それは単なるヒューマニズムとドラマではない。本作はそこから別のところへ出発する。 小説内小説の中に、さらに小説を埋め込み、小説はいろんな物語を生み出す。やがて物語同士がぶつかり合い、世界が混沌と化す。 小説内に登場する息子(エドガー)は人工意識として生まれ、分裂し、さまざまな物語を生み出した。物語はその世界を保持する役割を担い、世界に背くような物語は排除される。 イレギュラーが生まれ、本筋たちに反旗を翻し、ぶつかり合い、世界は崩壊へ向かっていく。 個人的に、伊藤計劃の影響が強い作品だと感じた。随所に見られるログの表示は『ハーモニー』っぽいし、終盤の言語に対する洞察は屍者の帝国(これははぼ円城塔作品だけど)に通じる。 - 2026年9月20日
編集工学を提唱した松岡正剛の意思は、彼の死後も弟子たちに受け継がれている。その一つが本書、『問いの編集力』である。 本書は、「問いはどう生まれるか?」という、問いを問う問題提起から始まる。論理という概念を論理でもって説明するような試みだ。 子どもの頃はたくさんの問いが生まれたのに、いつのまにか問うこともなくなり、既知に囲まれていく。 そのような状況を打破するために本書は生まれた。 個人的に思ったのは、「問いとは感情を伴うものなのではないか」という仮説である。例えば、「なぜ人を殺してはいけないんですか?」という問いは、単なる疑問に加えて既存の倫理に対する冷笑を含んでいる。 「なぜ自分はこうなのか」 「なぜあの人はああなのか」 こうした問いは、妬みや自己嫌悪を伴って現れる。感情を抜いた純粋な問い。それを出すのは意外と難しい。 私たちが大人になるにつれて蓄積していった感情という添加物。問うためには一旦それらを削ぎ落とす必要がある。 本書はそのやり方を教えてくれる。 - 2026年9月19日
イマジナリー・ネガティブ 認知科学で読み解く「こころ」の闇久保(川合)南海子「プロダクション」という言葉を知っているだろうか。これは認知科学の概念で、自分の内心を現実に投影する心の動きを指している。 本書では「プロダクション」を用いてイマジナリー・ネガティブ(想像上の劣等感・悪感情など)を解明する。 「プロダクション」は人間の認知機能の根幹だ。 人は世界をあるがままには見れない。 毒キノコを見て、「人体に害を及ぼす食物」と考えるだけでなく、「けれど妖しい魅力を放つもの」「自然の厳しさの象徴」など連想・比喩を思いつく。 人の事物の見方は文脈や文化に左右されるのが常だ。 文字も声色も人間がなんらかの教育を受けたからこそ認識できる。プロダクションがあるからこそ人は苦しみ笑える。 - 2026年9月18日
属国民主主義論 この支配からいつ卒業できるのか内田樹,白井聡「中国人や韓国人、最近ではイスラム教徒を排斥する動きがあるけど、なんでアメリカ人は排斥の対象にならないんだろう」 こんな疑問を解消するために本を探して、たどり着いたのが本書である。 日本とて戦後直後からアメリカを歓迎していたわけではない。直後は属国としての自覚を持ち、自立を夢見ていたのである。 しかし、いつの間にか「独立は果たされた」ことになった。外交においてアメリカ抜きには考えられず、沖縄に米軍が居るという状況なのに、属国としての自覚を持たなくなった。 属国という立場なのに、独立していると思い込んでいる。だから他者を排斥することができる——アメリカ人を除いては。アメリカ人は日本人にとって他者ではないのである。 - 2026年9月17日
- 2026年9月14日
地球上に散らばる民族たち。 その文化には差があり、文化人類学はその差を眼差す学問である。本書では「子ども」に焦点を当てて、各民族の子どもがどのように学習していくのか比較していく。 見て、覚える。 今の日本において、この学習の仕方をする機会がどれほどあるか。子どもに限らず大人でも「見て、覚える」機会に接することは稀なのではないか。 人から何か教えられる時、「メモを取ってね」とか「分からないことがあったら聞いてね」と言われた経験は誰にでもある。 そこには「教える/教えられることは、自分以外のモノ・ヒトを活用する」前提が潜んでいる。 それはある意味で「あなたの観察眼なんてアテにしていない」というメッセージになりうる。「見て、覚える」というのは単純なようで「あなたの観察眼を信頼している」という肯定的なメッセージなのではないか。 子どもに対して「見て、覚えろ」というやり方は、なんだか古臭いが、子どもを成長させるには一番真っ当な指導なのかもしれない。 - 2026年9月13日
みんなのコミュニズムビニ・アダムザック,斎藤幸平,榎本俊二,橋本紘樹資本主義のもと生じた不幸を経験した人々は、やがて資本主義を超えた世界(コミュニズム)を夢想し始める。 コミュニズムとはどのようなもので、どのように構想され、また失敗してきたのか。童話のような世界観でシビアな話を描く。 コミュニズムを和訳すると「共産主義」となる。 訳語を聞いた途端、警戒した方もいるだろう。実行した国々はことごとく悲惨な目にあった、傾国の美女なるぬ傾国の思想ともいうべき概念がコミュニズムなのだ。 本書におけるコミュニズムの描き方はコミカルでありながら、決してバカにしているわけではなく、根底にコミュニズムの肯定がある。文中の登場人物があれこれ試行錯誤する様に「ガンバレ!」と応援したくなる。 - 2026年9月12日
可能性としての戦後以後加藤典洋『可能性としての戦後以後』は、戦後の日本人像を問うた本である。「日本人とは何か」という問いにおける「日本人」を論じた「『日本人』の成立」、「建前」「本音」という昨今使われている言葉の新規性を暴く「失言と癋見」など、戦後日本を作った新文化を見ていく。 私が人に勧めたいのは「『日本人』の成立」である。今、外国人という存在への対処法は排斥/容認/選別といった視点から語られるが、実際に過去の日本列島ではどんなことをしていたのかが書かれている。 この稿を読んだ時、私は「日本人」というのはどれだけ弾力のある概念か、と感嘆せざるを得なかった。外国人とされてきた人々を一挙に取り込み、はじめから身内でしたと言わんばかりに対外国に周知する。 この弾力性を思い出すのが、現在の対外国人問題の解決につながると思っている。 - 2026年9月10日
大和書房が送る異国エッセイシリーズ『よんたび』、ニューヨーク編。 誰彼構わず受け入れるニューヨーカーたちの日常と、ニューヨーカーたろうとする著者のドタバタ劇が展開される。 先進国の都会ではどこも外国人が多数来訪しているが、ニューヨークの人々は外国人に対する経験値が多いと感じた。 「ようこそニューヨークへ!」 初対面の外国人に「ようこそ」と言えるフレンドリー仕草。東京や京都では考えられないものだ。 「英語という普遍語で話しかけられる」ゆえに大抵の外国人が理解してくれるという条件付きではあるが、ニューヨーカーたちは人の懐へ突っ込んでいくのが上手い。 東京・京都ではオーバーツーリズム問題が盛んに論じられているけども、ニューヨークはそもそも「オーバーツーリズム?なにそれおいしいの?」と言われるだろう。彼らにとって外国人は余所者ではなく、身内になる予定の人なのだ。 あらゆる人間を身内に取り入れる。 アメリカの強かさの根源が、ニューヨークにはある。 - 2026年9月9日
たった一人の読者を生きる荒井裕樹市販されない、それどころか身内にすら見せない、ごく狭い世界で読まれる作品たち。「障害者文学の研究」を行う著者は、そんな影を帯びた作品たちについて語る。 「障害者文学の研究」は、文学部と福祉学部の間に位置する、谷間の学問分野である。文学部にいれば「福祉学部の分野だろ」と言われ、福祉学部にいれば「文学研究じゃないの?」と言われる。 どちらにも属することができない分野というのが、著者の研究なのである。本の中で語られているが、大学で研究内容を発表した時は暴力沙汰すらあったというのだから驚く。 人文学はパッケージ化してしまった、と私は思う。そこでは既存の研究の深掘り、既知の追認ばかりで、未知の探究がされない。著者のような未知の探究をする人を迫害してしまうのが、人文学の現状である——こう言っても過言ではない。 読む人が少ない文章を保存して、解釈すること。それは学問においては大きく称揚されないだろうが、確かに必要なのだ。
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