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@bunkobonsuki
文庫本を中心に読んでいます。 noteでも本の感想文を書いておりますので、もし良かったら参考に。
  • 2026年8月25日
    寝ながら学べる構造主義 (文春新書)
    フーコー、ドゥルーズ、ラカン、レヴィ=ストロース——難解な思想と名高い「構造主義」を、平易な言葉で噛み砕いたのが『寝ながら学べる構造主義』である。 「街場の◯◯論」シリーズで知られる内田樹、その原点がここにある。 難解な思想を知らない人に説明する試みは、実は日本特有なのだという。とある地域で生まれた思想を、別の思想で説明する。いわゆる「例え」なのだが、本書は「例え」が秀逸だと感じた。 本書では落語や昔話を例えにしながら構造主義を説明するのだが、これはかなり離れ業だと思う。 時代も場所も違う事柄同士をつなげるのは、相当な困難を伴う。アメリカのHIPHOPを日本の演歌で例えるような難事を何気なくやってのける。 構造主義の入門書は数あれど、例えるという点でここまで巧みがかっているのはないんじゃないか。
  • 2026年8月25日
    言語起源論の系譜
    「言語はどうやって生まれたのか?」 この素朴な問いは、ヨーロッパでは政治が絡む複雑な問いに変貌する。誰かが「◯◯語が起源だ」と主張する時、それはその国の権威を高める狙いがある。 キリスト教圏のヨーロッパで生まれた言語起源論。その歴史は、「神への忖度の歴史」と言い換えることができる。 神は完全な言語を作り上げた。 では、なぜ今使われている言語——不完全な言語へ変わったのだ? その不合理を説明するために、欧州中の賢人たちがあくせくと理屈を組み立てていく。 読んでいくと馬鹿らしいことを論じているように思えてしまう。だが、その馬鹿らしい過程が無ければ、言語を探る学問は誕生しなかった。 神に忖度し、翻弄され、それでも遥か昔へ迫ろうとする人々の歴史。それが言語起源論である。
  • 2026年8月23日
    日本語の外へ
    日本語の外へ
    ブッシュ政権〜クリントン政権のアメリカ情勢を描きながら「日本語とは何か」を日本語の外=英語から考察する、600ページ越えの大著。 本書は"時代を感じさせる"本である。 「時代を感じさせる」という物言いは、対象が今の時代にそぐわない、古臭いなど否定的なニュアンスを含む。 ただ、『日本語の外へ』は「時代を感じさせる」ことが肯定的な意味を持つ本だ。 私はそう思っている。 本書を著した片岡義男は、1939年生まれ。 幼少期を第二次世界大戦の真っ只中で過ごし、少年から青年にかけて日本の復興期〜高度経済成長期とともに過ごした。 日本が目覚ましい経済成長を遂げる一方、日本語という言語は何度も反省を促された。先の大戦を引き起こした一因に、日本語という言語そのものが関わっているというような見方があった。 あるいは、戦後の日本の無反省は日本語の構造そのものが原因であるというような見方もあった。 本書で語られる日本語という概念に、著者は厳しくあたっている。英語ではIとYOUという絶対的な個人と他者があるのに、日本語にはそれがない。どこまでいっても上下関係を前提としている。そんなふうに書く。 今でこそ日本語は日本人にとって素直に肯定できる言語である。しかし、戦後からかなり長い間、知識人はそのような見方に警鐘を鳴らしていた。 『日本語の外へ』は、その警鐘の代表格である。読む人にとっては不快を覚えるだろう。だが、著者がなぜ本書を日本語で書いたのかに思いを馳せれば、幾分フラットに読めるかもしれない。 日本語の外へ。 ただし最後はここに戻ってくる。 日本語はそんな言語であってほしい。
  • 2026年8月21日
    ババヤガの夜
    腕っぷしの立つ女傑・新道依子は、ふとしたことから暴力団団長の娘・尚子の護衛を任される。暴力、暴言、拷問なんでもありの退廃した世界で、二人は生き抜いていけるのか。 R-18指定レベルの暴力描写が雨あられのごとく飛び込んでくる。だが、読み進めるうちにそうした衝撃は後景に退き、かわりに性の問題に関する議論が前景化する。 本作の構成はとても繊細かつ緻密に作り込まれている。ネタバレを承知で書くのだが、本作はあえて年代をぼかして書かれている。           * 我々読者は現代の話として読むために、主人公の在り方も(フィクションだからこそ受容できることもあるが)そこまで不思議に感じない。 こういう対照的な人物のバディ物は主人公が異質な存在であると読者に思わせるものだが、本作の場合、読者は主人公に共感する。 むしろ、良妻賢母を志す尚子に対して「時代遅れだなぁ」という感想を抱く。 だが、読者の予想は完全に裏切られる。 「時代遅れだなぁ」と思っていた尚子の在り方こそ、まさにその時代の標準的な生き方だったのだ! 叙述トリックものはどんでん返しに使われる。カタルシスを与えやすい一方、安易に使うとしらけてしまう。だが、本作のどんでん返しは単なるカタルシスではない。 読者のキャラクターに対する眼差しそのものを変える、劇的な方向転換だ。 『ババヤガの夜』は、今後キャラクター小説に多大な影響を与えるであろう。
  • 2026年8月19日
    構造と力
    構造と力
    ベストセラー、ロングセラーとされる本の文体は、たいていリーダブルである。万人に伝わりやすいからこそ読み継がれる。それこそが名著の条件——だろうか? 『構造と力』は、名著である。 だが、リーダブルではない。少なくとも「構造主義」という単語を知らない人にとっては、この本が何を語っているのか詳しくは分からないだろう。私だって分からない。 本書は刊行されてから文庫本になるまで数十年かかっている。普通、売れる本というのは数年で文庫本になるものだが、本書は例外的に長い歳月を経て文庫化した。 さて、冒頭の問いに戻ろう。 万人に伝わりやすいからこそ読み継がれる。それこそが名著の条件——だろうか? 私はそうだと思っている。 この本を読んでからよりその思いを強くした。 本書は分からない。 しかし、"伝わる"のである。文中で指し示している単語がどんな現象なのか分からないけれど、実生活につながっていることは確かに伝わるのである。 分かる/分からない 伝わる/伝わらない 二つは似て非なる言葉である。仏哲学研究者の内田樹は、レヴィナスの著作をはじめて読んだ時に「分からないけれど自分に向けて書かれたものだと思った」という。この場合も、「分からないが伝わる」ということが起きている。 意味が解読できないけれど、それでも何か訴えかけてくる。そんな形の名著に出会う機会は貴重だ。
  • 2026年8月18日
    狩りの時代 (文春文庫)
    大家族の一員である絵美子は、幼い頃に何者かから「フテ・・・・・・」と囁かれる。「フテ」とは何か?誰が囁いたのか? 第二次世界大戦の臭いが色濃く残っていた時代、とある大家族の中で生じた謎。物語は思い出とともに解明へ進んでいく。 ダウン症とヒトラー・ユーゲント。 二つの概念を結びつけるのは容易ではない。それでも津島祐子は成し遂げた。差別とは時代と結びついている。 「不具者は安楽死させるべき」という、現代でも(むしろ、現代だからこそ)共感を呼ぶであろう考え方。その始まりがヒトラー・ユーゲントだと知った時は背筋が凍る思いであった。 次の世代へ繋いでいくべき文学は多々あるが、この作品は一際そうなるべき作品である。
  • 2026年8月18日
    なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない
    臨床心理士の著者は、不安を抱えた人々を観察する。実務で出会った体験談と、臨床心理の知見を「小舟」という比喩から伝える一冊。 なぜ、本書は「小舟」やら「馬とジョッキー」やら比喩が目立つのだろう。他の心理に関する本は、比喩を用いず直接伝えている。 あとがきで触れられているが、もともとこの本はインタビューを文字起こしして刊行される予定だったという。他の本の同じような構造の予定だったわけだ。 それが、「このままでは伝わらない」と感じたらしい。比喩を使った文体で書かなければならないと思った、と。 事業の失敗、不倫、緊張、いろんな苦しみを扱う本書において、現実をそのまま捉える書き方は、書く方も読む方も苦しかったに違いない。 比喩は現実を薄める処方箋である。 カルピスの原液を薄める水のようなもので、だからこそ良い塩梅になるケースがある。 なんでも見つかる夜。 見つけたものに対する解釈をするのは自由である。見つからない「こころ」とは、ものを解釈=比喩するところから生まれるのかもしれない。
  • 2026年8月15日
    読書嫌いのための図書室案内
    本をほとんど読まない主人公・荒坂は、図書委員として図書新聞を制作に携わる。本の虫である藤生とともに制作を進めるうち、18年前に学校で起きた事件の謎に触れていき・・・・・・。 本を読まない男子主人公と、髪の長い眼鏡をかけた本好き女子という組み合わせ。あらすじから漂うミステリとラブコメディの合わせ技の物語。表紙を見た時は「ちょっと王道すぎるんじゃないか」と思っていた。 しかし、中身は第一印象とかなり違っていた。 というのも、主役である荒坂と藤生の関係は結構緊張を孕んでいて、ラブコメディの要素はあまりない。 出てくる登場人物も闇を抱える者ばかりで、学校が舞台の物語としてはかなり暗い雰囲気である。 読み終えた後に表紙のイラストを見ると、結構驚く。イラストの場面は、多分卒業間近の時期にあった出来事なんだろうと思う。
  • 2026年8月14日
    敗者の想像力 (集英社新書)
    8月15日を前にして、日本人は何を考えるのだろう。私はこう思っている。 「何も考えない」 随分過激な物言いだと自分でも思う。 しかし、第二次世界大戦が終わり、アメリカ軍に占領されたという事実を、日本人は進んで忘れてきた。日本には、敗戦の記憶、"敗者の想像力"が欠落しているといってもいい。 『敗者の想像力』は「日本が戦争に負けた」ということをどう忘れ、どう受け止めたのか、考察する本である。 原爆を擬人化した特撮映画『ゴジラ』や、大江健三郎など一部の作家の作品には敗戦を受容する試みがあった。 それでも時代が下るにつれて『ゴジラ』も大江健三郎も敗戦を下地に理解されなくなる。それはそれ、単体の物語として理解される。 8月15日。 それは悲劇の終わりとされる日である。 問題は悲劇の終わり方だ。 悪感情を忘却するのは良いことである。 怨みを残さないのは後世に受け継がれるべき慣習であると思う。 しかし、当時確かに敗者として作られた作品群たち、彼らが生まれた意図を忘却してしまうのは、いかがなものか。 記憶することで悲劇を終わらせることはできないものか。
  • 2026年8月12日
    複雑化の教育論
    大人になることは複雑化することである。 著者はそのように主張する。 複雑化とは、個人の中に多様な声・顔がある状態である。「自分とはこういう人間だ」と言い切れない状態である。 複雑化は現代の教育では歓迎されない。 なぜなら教育において子どもに求めるのは単純になることだからだ。できるだけ教師や親が予測しやすい人間になることを、教育は目指している。 著者の主張は平野啓一郎の「分人主義」に通じるところがある。ある時はこう、また別の時はこう、さらにある時は・・・・・・というように、人によって人格が分化すること。それが分人であり、複雑化だと私は解釈している。 人間は単純化を志す一方、複雑化を抑えられない生き物であると思う。あらゆる人間に同じような存在でありたいけれど、それでも知らず知らずのうちに対応を変える。 人々が教育されるうちに忘れていた、複雑化という本能。本書は、その本能を肯定してくれる。
  • 2026年8月11日
    22世紀の民主主義 選挙はアルゴリズムになり、政治家はネコになる (SB新書)
    民主主義が成熟した国ほど経済やコロナウイルス対策で遅れを取っている——その事実を前に、私たちはどのような手を打てば良いのか。 本書で語られる未来の民主主義は、「選挙以外の場面でも民意を読み取る」制度であるという。 現状の民主主義において、民意を確認する場は選挙しかない。しかし、民意とはごく日常に滲み出るもの。ならば日常から民意を読み取る仕組みがあれば、より的確な政治ができる。 タイトルにある「政治家はネコになる」だが、これは比喩でもなんでもなく本当にそうなる可能性がある。 考えてみれば、政治家に求められているのは能力どうこうよりも「能力があるように見える」ことだ。 選挙のたびに現状を変えうるスター候補が現れ、担ぎ上げられるが、本当に現状を変えた例は少ない。それはなぜか。 変えたが最後、その人はスターではなく現実の役人としてしか認識されなくなる。国民から人気でいるためには、「この人なら変えるだろう」という期待された状態を維持し続ける必要がある。 本書において実際に政治を行うのはアルゴリズムだ。アルゴリズムに担えない役柄は、この「能力があるように見える」ことだ。それは人間でなくてもいい。愛されるということにおいて、人間より適切な存在(ネコ)がいる。 政治において、実務はもちろん、矢面ですら人間が不要になる時代。それは22世紀を待たずして来るかもしれない。
  • 2026年8月10日
    なぜ日本文学は英米で人気があるのか (ハヤカワ新書)
    <世界の主要文学>として、以前から一定の評価は受けていた日本文学。しかし、評価の対象は夏目漱石や三島由紀夫といった近代の男性作家が主だった。 ところが、今の英米では真逆のことが起きているのだ。現代の女性作家——村田沙耶香、小川洋子、柚木麻子といった作家の作品が英米の文学賞を席巻している。 英米で何が起きているのか? なぜ、以前とは別の形で日本文学が注目されているのか? 「翻訳」というキーワードから、世界文学に起きていることを解明する。 本書では触れられていないが、個人的に日本文学が再評価される一因にファンサブ文化があると思う。 日本のアニメを制作会社に無断で翻訳するファンサブ文化は、著作権侵害といえばそれまでだ。 しかし、日本語の地位を押し上げ、英米の英語帝国主義を後退させるという点では歴史的な転換点だったのではないか。 日本語というローカルな言語を英語という世界語に翻訳する。 普通であればまず起こり得ないインセンティブが、「アニメを自国語で理解したい」という動機によって大規模に生み出されたのである。 ファンサブはもはやそれ自体が一大文化と呼べるものになっている。必然的に日本語を理解した翻訳者たちが養成されるわけで、日本文学の輸出に一役買っていると思う。
  • 2026年8月8日
    仕事と日本人 新版
    働くということを、日本人はどう捉えていたのか。経済史研究者・武田晴人が日本における仕事の歴史を紐解く。 近世まで仕事の主体は各々個人であったが、近代から現代にかけて、人は仕事の主体を組織に譲っていった。現代の労働観、すなわち「雇われる」労働観は、その変遷が完了したことを示す。 では、今後の「仕事」とはいかなる状態になるだろう。もしかしたら、個人が主体だったかつての姿を取り戻すかもしれない。 森鴎外は「しごと」を「為事」と書いていたという。仕える事という意味の「仕事」とは対照的な、「為す事」として捉えていたのが鴎外であった。 今から何十年後。 「しごと」を漢字で表す時、人々は「仕事」と書くか、「為事」と書くか。
  • 2026年8月4日
    「夫婦」不在社会
    近年の創作において、「シングルマザー」はキーワードだ。「夫」という存在を喪失した家庭を描き、親子間の絆を回復する物語は消費者の胸を打つ。 本著が問うのは「なぜ『夫』『父』不在の物語が作られるのか」である。この問いは現代社会における男女間、親子間で起きている不和の問題につながる。 思えば、「女性」「母」と「男性」「夫」は意味の変容過程にかなりの差がある。前者が何度も更新していったのに対し、後者はほとんど意味を変えていない。 「女性的」という言葉は、ある時代では農業の担い手であり、ある時代では子どもの庇護者という意味があった。時代がその時の女性に求める資質を決定していたからだ。 対して「男性的」という言葉は、未だ昔ながらの家父長制的な意味を含む。それは権力を持った、金を稼ぐ、高圧的な存在である。もはや実現しようがない時代においてなお、意味が更新されていないのである。 本著のタイトル「『夫婦』不在社会」における「(夫の)不在」を私なりに解決するとすれば、それは「夫」「父親」「男性」といった人物像の更新をするべきではないかと考える。 では、人物像の更新は何によって為されるべきか? それこそ、文学の役割なのではないか。自由に世界を作り、物語を述べられる文学にこそ、その権利があるのでは。
  • 2026年8月3日
    ニュー日本文学史
    温故知新とは言うものの、いざ新しきをすると非難されるのが世の常だ。それは文学史も例外ではない。 『ニュー日本文学史』では、今でこそ古典とされる名作たちが、当時の価値観としては邪道気味な存在だったことを知らせてくれる。 「古典を読むと既視感に襲われる(=今の作品に似ている)」という意見があるが、そこに至るまでには価値観を捻じ曲げ続けた歴史があるのだ。 さて、この『ニュー日本文学史』は夏目漱石の『吾輩は猫である』で終わっているが、その次やさらに次を配置するとしたら、あなたはどの作品を選ぶだろうか。 「自分だったら・・・・・・」というifは読者の数ほどあると思う。『こころ』、『仮面の告白』、『砂の女』、『ドグラマグラ』、あるいは現代の文学。 本著はシンプルにすごく面白い。 同時に、百花繚乱の歴史を持つ日本文学史を絶えず受け継いでいく(ニュー日本文学史の続きを考えられる)にはどうするべきか、考えさせられる。
  • 2026年8月2日
    定本 批評メディア論
    文学に通暁した文人たちだけが入ることを許される象牙の塔、「文壇」。実は、案外現金な世界である。 『底本 批評メディア論』では、戦前期の日本文学やジャーナリズムの界隈でどんな"壇"が形成され、そこにいた人々は何をしていたのか明らかにする。 戦前期ということもあって、今から100年以上前の出来事もを取り上げる・・・・・・のだが、「今と変わらん!」と言いたくなるほど現代的なエピソードで溢れている。 例えば、座談会。 雑誌を売り上げるために文壇・論壇のスターたちを集め、戦わせ、果ては「存在しない対決」をも特集してしまう。 ニュース番組の討論会そのままである。 戦前期の壇を総括し、同時に未来の壇のも占う一冊。
  • 2026年7月30日
    生まれてよかったか? はじめての反出生主義
    電車の中や家の中、あるいは会社の休憩室。 人前で読むのは憚られる本というのは存在する。エロ本を公共の場で読むのに躊躇しない人はごくわずかだろう。 では、別にエロくもなければグロくもない、だけど読むのが憚られる本は存在するか——『生まれてよかったか? はじめての反出生主義』はそのような本だと思う。 その理由は「反出生主義」というワードにある。 反出生主義とついているだけで物々しい感じがする。人間の存在を認めない傲慢な思想・・・・・・反出生主義はそういう目で見られている。 だから人前で読むのに躊躇する(個人的には)。 実際は真逆だ。むしろ、人間の存在を尊く思うがゆえに誕生した思想が反出生主義なのだ。 時代が下って人権や倫理の論理が整備されると、「人(親)が人(子ども)を産み出すのは、産み出される側にとって理不尽なのでは?」という疑問が出てくるのは当然だろう。 ましてや、産み出された側(子ども)が不幸な状態にあれば、なおさらそうした声は出やすい。 この本はまさに産み出された側(子ども)に向けて書かれている。まるで高僧から教え諭されている感覚になる。読んでいて落ち着く。 本書は最後にブックガイドがあり、そこで反出生主義に関連する本を知れるのだが、ラインナップが広い。小説、エッセイなど、特に反出生主義を意識せず読んでいた本が並ぶ。 なにかと誤解されがちな思想、反出生主義。 本書は堂々と人前で読むものである(冒頭であんなことを書いたくせに)。
  • 2026年6月26日
    プレゼント
    プレゼント
    「新潮文庫の100冊」50周年! その記念碑として、現代を代表する作家たちによる短編集『プレゼント』が先日店頭に並んだ。 初回限定カバー版には作家たちの名前が並んでいるのだが、その豪華さには目を見張る。 伊坂幸太郎、江國香織、恩田陸、梨木香歩、町田そのこ、宮部みゆき、米澤穂信・・・・・・。 どの名前に注目するかは、読者によって分かれるだろう。単に豪華なだけではなく、世代の違う作家を並べたところに面白さがある。 内容だが、意外とファンタジーである。 SCPやback roomsを思わせる作風のもの、探偵ものかと思えばそうでもないもの、怪談に近いものなど、「この人ってこういうことするんだ」という驚きがあった。
  • 2026年6月23日
    動物化するポストモダン オタクから見た日本社会
    「データベース消費」という概念を導入し、オタク文化を紐解きながら、"自由な批評"を標榜する現代文学批評の古典。2000年代に刊行された本書は、流行り廃りが激しい今もなおその有効性を失わない。 「データベース消費」とは、「まぁ、このキャラやストーリーはだいたい◯◯系だよね」という消費の仕方である。「黒髪でストレートロングヘアーのキャラクターなら文学少女だ」というふうに、キャラクターの見た目だけでどういう人物か査定できる。ある意味で偏見ですらある。 この消費の仕方は日本の創作を大きく変えた。 世の中には「原作は知らないけど二次創作でたびたび見かけるから、だいたいどんな存在か知っている」キャラクターがいる。 「東方プロジェクト関連のゲームを知らなくても、『◯◯幻想入りシリーズ』でキャラクターを知った」 こんなことは誰しも経験したことがあるのではないだろうか。もっといえば、これら二次創作は一次創作である原作に対する見方をも変えてしまう。 創作はもはや原作者だけのものではない。 オープンコード的なものとして原作は扱われ、主体は二次創作をするオタクたちに変わった。それは一言でいえば著作権の侵害だが、非倫理的な行いであるにも関わらず許容され、それが文化にまで昇華されている。
  • 2026年6月22日
    オタク的想像力のリミット
    オタク的想像力のリミット
    日本のサブカルチャーを牽引してきたオタクという存在。しかし、「オタクはどのような存在か」という点で、オタク理解はまだまだ進んでいない——。 そのような問題提起から、本書ではオタク研究をしてきた者たちによるオタク論が展開される。 オタクという言葉の幅は広い。 現代においては、サブカルチャーに触れていればとりあえず「オタク」として扱われる。ファン、推し担と同じような存在として認知されているようである。 オタクの見た目も変遷している。 秋葉原で鉢巻を巻いた太った中年の姿より、前髪の長い学生の姿の方が、現代では現実的ではないだろうか。前者は古の時代のシンボルとして描かれるばかりだ。 しかし、そのシンボルも昔は生々しい存在であったことを、本書は伝えてくれる。
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