
ねこちゃん
@nekochan_kawaii
2026年6月10日
言語学バーリ・トゥード
川添愛
読み終わった
文章を面白く書くぞ!という気概がめちゃくちゃ感じられて(というか本人がそうアピールしていて)好き。
ニヤニヤしつつもサクッと読み終わったのだが、いままで学んだ事項の軽い復習にもなってたいへん有用な本でした。


ねこちゃん
@nekochan_kawaii
メモ。
自分が他人にどう見えるかを気にしすぎるのはどうかと思うが、そういうことが全然気にな らない人も少ないだろう。私はかなり気にする方で、しかも「できれば、自己イメージとか考 えない自然体の人だと思われたい」という、かなり面倒くさい入れ子型の欲求の持ち主である。 ・・・・・・と正直に書くことで、これまた「この方は正直で飾らない、自然体の人なのね」と思われ たいという、さらに面倒くさい入れ子型の欲求の持ち主である(以下無限に続くため省略)。

ねこちゃん
@nekochan_kawaii
メモ。
過剰な一般化をしていると きにそれが意識に上っているかどうか、またそれを言葉にしてしまうかどうかが一つのカギな のではないかと思っている。 子どもの言語習得における過剰一般化は、子どもの意識に上らず、 それゆえ子ども自身が「今パパが言った『ポチ』という言葉は、目の前のこの一匹の動物に固 有の名前ではなく、 それに似た動物全般を意味する一般名詞に違いないデチュ」などと口に出 すこともない。一方で大人の過剰一般化は、いったん意識に上ると、たいてい心の中で言語化 される。その「言語化した過剰一般化」をさらに認識することで、その人の中で強化されてし まうのではないだろうか。さらにそれを口に出してしまうと、他人から非難されたり、あるい は賞賛されたりして引っ込みが付かなくなり、訂正する機会を失い、自己正当化がどんどん進 んでしまうような気がする。

ねこちゃん
@nekochan_kawaii
メモ。
主語の大きさ、つまり裸名詞が文中において実際にどれほどの範囲をカバーす るかは、述語に左右されるところが大きい。よって、自分の発言の主語が大きくなっていない かをチェックするときは、主語のみならず、 述語にも気をつける必要がある。
そもそも、他人について何か言うとき、その「状態」ではなく「性質」に言及しようとする こと自体に、多かれ少なかれ過剰一般化が伴うのではないか。たとえば誰かがぎこちない手つ きで何かしているのを見て、「あの人は不器用だ」のように「その人の性質」を決めつけてし まうと、それは過剰な一般化になるだろう。

ねこちゃん
@nekochan_kawaii
自己卑下発言は、今の自分のあり方が「私が考える標準レベルより低い」ことを表明するも のだ。この中には少なからず、「私は安易に何かを良いと思ったりしない人間だ。私が想定し ている標準は、そこら辺の奴らが考える標準とはレヴェェェェルが違うのだ」という「理想の 高さ自慢」、さらには「私は自分自身に対しても、客観的で容赦のない評価ができる」という 「客観性を失わないワタシ自慢」が含まれていたりするので注意が必要だ。
他人の自虐的発言の中にも、「私が何かを評価するときに着目するのは、そんじょそこら の奴らには考えもつかないような側面だ」といった「目の付けどころがシャープ自慢」が含ま れているかもしれない。つまり自虐的発言を全面的に否定すると、本人が暗に自慢したかった これらの要素まで否定してしまうことになりかねない。

ねこちゃん
@nekochan_kawaii
学術用語は一般に、議論を厳密に行うために慎重に定義されている言 なので、定義をぶっ壊されると非常に困る。 ツィッターなんかで研究者がよく「誤用警察」 になる場面を見かけるが、その裏にはそういった深刻な事情があるのだ。
また、社会問題をする言葉にも似たような側面があり、変な使い方が広まると問題自体 のが薄められてしまう危険性がある。