
ジクロロ
@jirowcrew
2026年6月11日
プロパガンダ入門
ネイサン・クリック,
渡会圭子
読んでる
プロパガンダは常に聴衆が望むものを与えようとする。人々が動機を形成し、それを理解する助けとなるよう、理由と合理化の両方を与えるのだ。
……
私たちは動機とは個人の意識の内側にあるもので、心のうちを深く掘り下げないと理解することができないと考えがちである。しかし私は動機とは、その行動には理由があると思わせる外的な状況ー一つまり個人の意識の外側にあるものーーについて簡潔に表現したものと考えるほうがいいと思っている。このようなことは日常的なやり取りの中でいつも起こっている。
(p.43)
並読している本にこんな記述がある。
ベンヤミンによると、「人々を特定の行為へ動かす」ための手段としてのみ言葉が用いられるとき、その行為は、計算された効果でしかない。言語が「たんなる手段」と化すところには、みずから何かを始めるという意味での行為ーーアーレントが語った世界に「始まり」をもたらす行為ーーはもはや存在しない。
……
そのなかで一人ひとりの思考は、記号の自動的な連鎖に組み込まれて麻痺してしまう。その後に残るのは、自動的な反応としての行動だけである。この行動の次元で人々が束ねられることが、総力戦としての戦争の継続を可能にしているのを、ベンヤミンは見抜いていた。
(『ヴァルター・ベンヤミン: 闇を歩く批評』柿木伸之 p.67)
外的な言葉(プロパガンダ)は一つの世界に「終わり」(処理)をもたらす激情の肉声(人工物)。
内的な言葉(沈黙から湧いてくる声)は新しい世界の「始まり」をもたらす温かい春の息吹(自然)。
そんな対比が見えてくる。
破壊は扇動によりなされ、創造は下萌から始まる。
言葉を手段としてもちいるか、そのものとして表現するか。