しまりす "手の倫理" 2025年3月23日

しまりす
しまりす
@alice_soror
2025年3月23日
手の倫理
手の倫理
伊藤亜紗
「ふれる」 相互的 人間的なかかわり「ふれ合い」 相手の事情を思いやりながら、それを尊重するような接触 「さわる」 一方的 物的なかかわり(科学の対象も含む) 相手との感情的な交流を考慮しない一方的な接触 「さわる」を避けようとして「ふれる」まで捨ててしまうような、「産湯とともに赤子を流し」つつある時代なのかも 「ふれる」ことの価値の再認識が必要 体育は、「体」と向き合う教科 他人の体に、失礼ではない仕方でふれる技術を身につけさせること c.f.フォークダンスはGHQの占領下で普及政策がとられた フォークダンスにおける身体接触→戦後改革=アメリカナイズの副産物 フレーベル 1782年ドイツ中部生まれ、イェーナ大学で哲学、のち一生かけて幼児教育の研究と実践 ・「幼稚園」というコンセプトを作り、名前を与えた ・「恩物」、積み木や棒、ビーズのような粒で構成される教育玩具 「目を通して出会う石」と「手を通して出会う石」の違い 「メソッドの骨格をなす遊戯=作業も《恩物》による演習も決して視覚的イメージに還元できるものではなく、事物との協働という身体行為をともなう具体的なプロセスにこそ重点が置かれた」 石や木、物の性質を知っていくことが、フレーベルにおいては、「自身を知ること」へと折り返されていく 「手を通して見出される私がある」という感覚は物ではなく人にふれる場合も同じ しかし、物にさわることと生身の人にふれることは根本的に異なる経験、人にふれることは「倫理」の次元を含む 西洋哲学は倫理の問題を「まなざし」をモデルとしてきた 「まなざしの倫理の系譜」サルトル、メルロ=ポンティ、レヴィナス、フーコー、ラカン →身体接触=介助を必要としない、健常者の身体を基準にした倫理、介助という「他者の身体にふれる経験」は倫理の部外、場合によってはタブー 本書では、「手の倫理」「触覚」をモデルとする他者との関わり方 ときに、目ではなく、手で考える必要もある 道徳と倫理の違い ・道徳→「○○しなさい」という絶対的で普遍的な規則 その場まかせの行動をしないために普遍的な視点を持つことも重要 ・倫理→現実の具体的な状況で人がどう振る舞うかに関わる 人は個別的状況、立場における視点からしか、自分の行動を決められない 学問領域では特にしてしまう一般化、抽象化が社会生活のさまざまな場面ではできないということ 倫理は定まった価値の外部、明確な答えがない状態に耐える不安定さと隣り合わせ →迷いと悩みのなかにこそ、現実の状況に即する倫理の創造性がある 「倫理には創意工夫が欠かせない」 「倫理の……真の目的は、考えるための道具を与え、考え方の可能性を広げること」→そのための方法「ことばを慎重に選ぶ」ことbyアンソニー・ウエストン『ここからはじまる倫理』 「多様性」「ダイバーシティ」「共生」 言葉そのものは別に多様性を尊重するわけではない、むしろ逆の効果すら持ちうる 分断を肯定する言葉になっている、不干渉と表裏一体になっており、そこから分断まではほんの一歩 単に人々がバラバラである現場を肯定するための免罪符 「相対主義は反社会的な態度になりうる」 「倫理とは『他人のことに口を出すべからず』が問題解決として役に立たないーーどれほど意見が分かれていようとも、一緒に問題を解決していかなければどうしようもないーー」byウエストン 多様性という言葉に安住することでなく、いかにして異なる考えをつなぎ、違うものを同じ社会の構成員として組織していくか、にこそ倫理がある 具体的な状況と普遍的な価値のあいだを往復することで、異なるさまざまな立場をつなげていくこと 人と人のあいだにある多様性ではなくて、一人の人の中にある多様性、「無限性」 人と人の違いを指す「多様性」はラベリングにつながる 「目の前にいるこの人には、必ず自分には見えていない側面がある」という前提 配慮というよりむしろ敬意の問題 「思っていたのと違うかもしれない」可能性を確保しておくこと 手で人にさわり/ふれながら倫理を考えることは、まさにこの「思っていたのと違うかもしれない」緊張感に貫かれている 「相手はこうなのではないか」という仮説と、「そう見えているだけで実際は違うかもしれない」という不意打ちの可能性
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