手の倫理

手の倫理
手の倫理
伊藤亜紗
講談社
2020年10月9日
25件の記録
  • tosakanori
    tosakanori
    @tosakanori
    2025年5月27日
  • さくら
    さくら
    @saku_kamo_ne
    2025年5月24日
  • chein
    chein
    @chein9
    2025年5月5日
  • コージー
    コージー
    @koji1533
    2025年4月20日
  • 益田
    益田
    @msd
    2025年3月29日
  • Blue moon
    Blue moon
    @mimosamimi
    2025年3月29日
  • suisou
    suisou
    @suisou
    2025年3月29日
    土曜日の朝、白湯を飲んでからまたベッドに戻ってきて本を読む。買ってすぐに読んだ手の倫理を久しぶりに読みたくなって、線を引きながら読む
    手の倫理
  • しまりす
    しまりす
    @alice_soror
    2025年3月24日
    西洋の触覚論 石や木のようなものが対象、人の体を対象としてない、「さわる」偏重の触覚論 3つのポイントを「さわる」から「ふれる」へ更新していく 西洋哲学の文脈では触覚は「劣った感覚」 精神的感覚と考えられた視覚が最上位 ex.プラトンのイデア論(「見る」意味を持つイデインというギリシャ語に由来) ◎【距離】の有無による→視覚と聴覚が上位(精神的)、嗅覚、味覚、触覚が下位(動物的) ◎【持続性】の問題、認識するのに時間がかかる ex.インドの寓話、「群盲象を評す」非西洋社会でも劣った感覚 c.f.モリヌー問題 大陸合理論(ライプニッツ)v.s.イギリス経験論(ロック、バークリ) →「架空の盲人」byジョージナ・クリーグ、視覚障害者の学者 コンディヤック『感覚論』(1754) ◎私が私にふれるとき、それは同時に「ふれられているのは私だ」という感覚をもたらす この触覚に特有の主体と客体の入れ替え可能性を、本論では触覚の【対称性】と呼ぶ 対称性は「体をもった物理的な存在としての私の発見」という形で経験 触覚は、「魂を自己の外へ脱出させる感覚」 実際、私たちは自分の体の輪郭をみうしなうということがありうる うつ展の時の感覚、「自己の輪郭の急激な変化」 病でなくても、日々の生活のなかで自分の輪郭を見失い、不安にかられることがある そんなとき、ふと何かに包まれたり抱きしめたりすることで、精神的な安心を得たり、確かさの感覚を取り戻したりすることがある さわることでさわられ、そのことによって自分の存在を確認する 私たちが輪郭を見失ったとき、触覚の対称性ざ、確かな安らぎをあたえてくれる p.64-65序のまとめ的な部分 ◎【距離ゼロ】 触覚はさわり方しだい、ふれ方しだい 触覚は「さわる」「ふれる」という身体運動の結果として得られる ex.大福、普通にさわれば皮のやわらかさ、表面をなでるようにさわれば柔らかさというより乾いた粉っぽさ 畳、目と並行になでればツルツル、逆らうようになでればザラザラ、手のひらでなく指一本で触ればい草の繊維を細かく感じ、寝そべってほっぺたを押しつければひんやりした心地よさ、上に立てば足裏でふれるというより「乗る」ことになり、板張りの部屋から移動した時は柔らかさと弾力を強く感じる 「触感は『触り方』である」by仲谷正史ら『触楽入門』 対象についての情報と、それを得ようとするときのさわり方(触探索動作)六つ ・テクスチャ……表面をなでる ・全体の形……両手で包み込むように触れる ・細かな形……輪郭をなぞる ・硬さ……圧をかけて押し込む ・重さ……手のひらで受ける ・温度……手を置いて静かにする →「さわる技術」も問題になる、「ふさわしいふれ方」 ドイツの哲学者ヘルダー『彫塑論』(1778) 西洋の触覚論のなかでは例外的に、「生命」という観点から触覚について論じる(こちらも健常者側からの視点なので架空の盲人的になっていることは否めない) 従来は絵画と同じく視覚的とされた彫刻は触覚的な芸術と主張「絵画は視覚のために、彫刻は触覚のために」 触覚には、視覚や聴覚なはない、人間がこの世界で生きていく上で重要な役割がある 視覚を排することで見出した触覚の「深み」 視覚=対象を「横に並んでいるもの」として捉える感覚→絵画 聴覚=対象を「時間的に前後するもの」として捉える感覚→音楽 触覚=対象に「内部的にはいりこむもの」として捉える感覚 さわる手に対して、 ⑴対象がみずから語り出す(さわり方しだい) そしてこの語りにおいて、 ⑵動きのレベルで対象がとらえられている 「生命」「魂」、内部にあるもの、奥にある「たえず動いてやまない流れ」を手はとらえる「彫刻は内へ内へとはいりこんで仕事をする。存在し永続せよとばかり、生命をおび、魂にあふれた仕事である」 自然が作り出したものの内部にある、生命や魂のたえず動いてやまない流れ。この「自然のことば」を聞くことが触覚の役割、それを形にするのが彫刻という表現 我々は人の体にふれることで、その表面の情報(その人の肌の柔らかさやすべらかさといった物理的な質についての情報)を得るだけでなく、相手がいまどうしたがっているか、どうしたくないか、その衝動や意志のようなものにふれられる 触覚の「内部的にはいりこむ」性質が、「対称性」に結びつく 「ふれることは直ちにふれ合うことに通じる」、この「相互嵌入の契機」、「いわば自己を超えてあふれ出て、他者のいのちにふれ合い、参入するという契機」が、「さわる」にはない、「ふれる」ならではの深みを作り出す 触覚以外の互換、色「を」見る、音「を」聞く、臭い「を」かぐ、甘さ「を」味わう 「ふれる」に関しては、額「に」ふれる 助詞が違う、他の感覚と違って、主体と客体を明確に分離せず、内部に入っていく感覚だから 哲学者の坂部恵『「ふれる」ことの哲学』(1983)→和辻の「間柄」をめぐる倫理学にやや批判的「『間柄』のありか。『人と人の間』だけにかぎった和辻哲郎の『人間の学』が『間』の学としてはややせますぎるきらいがある」 ラグビーのスクラムの例 『味方を感じる』のは、お尻の部分。前に押そうとしても、後ろの選手と一緒に上手く縦方向に力を入れて伝えないといけない。味方同士で自分の感覚を伝え合う 味方だけでなく敵の意志も触覚を通して感じ取らなければならない ラグビーは「相手選手と自分の共同作業」 セーリングの例 より複雑に、三次元的に感じ取る お尻で感じる船の挙動や加速感、ロープから伝わる帆の張り具合で風がどこから吹いてきているか感じ取る 「当て舵」波の動きや傾きを読んで小刻みに舵を当て、船がフラフラ前後左右に傾くのを防ぐが、舵を切ってから、ボディがその操作に従うためのタイムラグを考慮しなければならないので風や波の動きを予測しながら、先回りして舵を切らなければならない「ディレイを含み込んだ触覚のスポーツ」 「ふれる」触覚は、物理的には「距離ゼロ」で相手の体に接触するとしても、知覚はその表面にとどまらず、「内にはいりこむ」性質を持っている 「ふれる」は物理的に距離があるほど、つまり相手の体との接触が間接的であればあるほど、表面の知覚にまどわされずに、純粋に内にはいりこんでいける 距離があるほど、逆説的にも入っていける このことは触覚が「距離ゼロ」というより、「距離マイナス」であること、対象の内部にある動きや流れを感じ取る感覚だということを示す
  • 喜多倉
    喜多倉
    @kitakura473
    2025年3月24日
  • しまりす
    しまりす
    @alice_soror
    2025年3月23日
    「ふれる」 相互的 人間的なかかわり「ふれ合い」 相手の事情を思いやりながら、それを尊重するような接触 「さわる」 一方的 物的なかかわり(科学の対象も含む) 相手との感情的な交流を考慮しない一方的な接触 「さわる」を避けようとして「ふれる」まで捨ててしまうような、「産湯とともに赤子を流し」つつある時代なのかも 「ふれる」ことの価値の再認識が必要 体育は、「体」と向き合う教科 他人の体に、失礼ではない仕方でふれる技術を身につけさせること c.f.フォークダンスはGHQの占領下で普及政策がとられた フォークダンスにおける身体接触→戦後改革=アメリカナイズの副産物 フレーベル 1782年ドイツ中部生まれ、イェーナ大学で哲学、のち一生かけて幼児教育の研究と実践 ・「幼稚園」というコンセプトを作り、名前を与えた ・「恩物」、積み木や棒、ビーズのような粒で構成される教育玩具 「目を通して出会う石」と「手を通して出会う石」の違い 「メソッドの骨格をなす遊戯=作業も《恩物》による演習も決して視覚的イメージに還元できるものではなく、事物との協働という身体行為をともなう具体的なプロセスにこそ重点が置かれた」 石や木、物の性質を知っていくことが、フレーベルにおいては、「自身を知ること」へと折り返されていく 「手を通して見出される私がある」という感覚は物ではなく人にふれる場合も同じ しかし、物にさわることと生身の人にふれることは根本的に異なる経験、人にふれることは「倫理」の次元を含む 西洋哲学は倫理の問題を「まなざし」をモデルとしてきた 「まなざしの倫理の系譜」サルトル、メルロ=ポンティ、レヴィナス、フーコー、ラカン →身体接触=介助を必要としない、健常者の身体を基準にした倫理、介助という「他者の身体にふれる経験」は倫理の部外、場合によってはタブー 本書では、「手の倫理」「触覚」をモデルとする他者との関わり方 ときに、目ではなく、手で考える必要もある 道徳と倫理の違い ・道徳→「○○しなさい」という絶対的で普遍的な規則 その場まかせの行動をしないために普遍的な視点を持つことも重要 ・倫理→現実の具体的な状況で人がどう振る舞うかに関わる 人は個別的状況、立場における視点からしか、自分の行動を決められない 学問領域では特にしてしまう一般化、抽象化が社会生活のさまざまな場面ではできないということ 倫理は定まった価値の外部、明確な答えがない状態に耐える不安定さと隣り合わせ →迷いと悩みのなかにこそ、現実の状況に即する倫理の創造性がある 「倫理には創意工夫が欠かせない」 「倫理の……真の目的は、考えるための道具を与え、考え方の可能性を広げること」→そのための方法「ことばを慎重に選ぶ」ことbyアンソニー・ウエストン『ここからはじまる倫理』 「多様性」「ダイバーシティ」「共生」 言葉そのものは別に多様性を尊重するわけではない、むしろ逆の効果すら持ちうる 分断を肯定する言葉になっている、不干渉と表裏一体になっており、そこから分断まではほんの一歩 単に人々がバラバラである現場を肯定するための免罪符 「相対主義は反社会的な態度になりうる」 「倫理とは『他人のことに口を出すべからず』が問題解決として役に立たないーーどれほど意見が分かれていようとも、一緒に問題を解決していかなければどうしようもないーー」byウエストン 多様性という言葉に安住することでなく、いかにして異なる考えをつなぎ、違うものを同じ社会の構成員として組織していくか、にこそ倫理がある 具体的な状況と普遍的な価値のあいだを往復することで、異なるさまざまな立場をつなげていくこと 人と人のあいだにある多様性ではなくて、一人の人の中にある多様性、「無限性」 人と人の違いを指す「多様性」はラベリングにつながる 「目の前にいるこの人には、必ず自分には見えていない側面がある」という前提 配慮というよりむしろ敬意の問題 「思っていたのと違うかもしれない」可能性を確保しておくこと 手で人にさわり/ふれながら倫理を考えることは、まさにこの「思っていたのと違うかもしれない」緊張感に貫かれている 「相手はこうなのではないか」という仮説と、「そう見えているだけで実際は違うかもしれない」という不意打ちの可能性
  • よしゆか
    よしゆか
    @yoshiyuka
    2025年3月14日
  • sbnm
    sbnm
    @chiharushiba_
    2025年3月14日
  • Taka
    Taka
    @pypy_05
    2025年3月12日
    「さわる」と「ふれる」は違う。
  • Ai
    Ai
    @aaaai
    2025年3月11日
  • 触楽入門から続けて読んだ一冊。 他人に触れる機会のあるお仕事されてる人にぜひ読んでほしい。触れることと触れられることの倫理について。 文化によっては触れ合うことを語ること、それ自体をタブー視しがちだけれど、正面から向き合う姿勢が本当に良かった。私はここから現象学にも目を向けようと思っています。
  • Hachi
    @bee
    2025年3月6日
  • 3710
    @minato_3710
    2024年7月12日
    一言で触る、触れると言っても立場が違えば色んな意味が生まれて解釈が違ってしまう。難しい…。
  • 鈍獣
    鈍獣
    @whale_in_da_room
    2024年1月25日
  • ねこさん
    ねこさん
    @o_necosan
    2022年11月19日
  • 台湾犬
    台湾犬
    @Masa_SMZ
    2022年2月15日
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved