DN/HP "彼女のカロート" 2026年6月13日

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2026年6月13日
彼女のカロート
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荻世いをら
5月はずっとこの本に収録されたふたつの小説を読んでいた。本を開いていなくても、別の本、文章を読んでいても、どこかでこの本、小説のことを考えていたり唐突に思い浮かんだり、そんな風にも「読み」続けていた。 フィジカルにもそれぞれ3回づつ小説の最後のページまで読んだし、書き込んだり付箋を立てたりもしたけれど、それでもまだ読み終わっていない感じ。まだぜんぜんわかってないから。そのわからなさがこの本、小説の、というか読書自体の魅力だと思っているから。まだずっと読んでいたい。 そんなずっと読み終わらない本に稀に出会うことがある。それはまさに偶然の出会い(「読書はチャンス・ミーティング」管啓次郎)で、人生におけるギフトのようなものだ。そう思い込んでみれば、そんな本に出会えたことに、とても嬉しい気持ちにもなるのだった。先月は誕生日もあったしね。 そんな小説たちのわからなさのなかで思いついた言葉で特に気に入ったものを取り出してみれば、それは「この小説たち(特に「宦官への授業」)は物語から自由だ」ということで。 小説のなかで起こる、描かれる出来事、登場人物たちの思索や感情が、物語を進めるためや結末に向けて回収されるような伏線としてではなくて、ただ起こり、ただ考え、ただ思い感じている。そんな風に書かれている、少なくともわたしにはそう読める、みたいな物語に奉仕するだけではない小説の自由さ。 世界の一部を切り取ったように、人生の一時期を掬い上げたような、たまに小説に対してそんなことを思ったり書いたりするけれど、その感じを突き詰めた、徹底してそう書かれたとしたらこんな小説になるのではないか。そりゃこの小説たちはわからないわけだ、だって世界も人生も、少なくともわたしには全然わからないものだから。 それでも、小説と同時に物語は進んでいくしテーマも浮き上がってくる。それもまたこの小説の凄さだ。その凄さは書かれたものと同時に書き方、文体が担う部分が多いのではないか、と今はそんなことを考えはじめている。ああ、そうだ、文体といえば、三人称の語り手の物語、登場人物との距離感についても考えたいんだった。そんなことを思いながら、やっぱりこの本はずっと読んでいたいし、多分ずっと読み終わらない。とまた嬉しい気持ちにもなるのだった。 昨日この本の、小説たちのわからなさをわからないまま勢いにまかせて書いた文章を、日付の下に日記と称して送ってしまったことには多少後悔している。まあそれも、わたしの人生の愛おしいわからなさだといえなくもない。
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