一年とぼける "オーランドー" 2026年6月13日

オーランドー
オーランドー
ヴァージニア・ウルフ,
杉山洋子
始めのうちは読み方に迷って、面白がれる作品のはずなのにイマイチ乗っかり方が分からないな、と感じていたが途中からスラップスティックとして軽薄に乗り出せば良いんだな、と気づきそこからはある程度スムーズに楽しめた。ただしスラップスティックと解釈すると途端に作品の多層/多面性が襲いかかって来て、今度は作品をどう受け入れればいいのか混乱が始まって、色んな意味で楽しめた作品だった。演劇を見る習慣は無いけど、演劇化するにはピッタリで小説よりももっと面白くなりそうだな、とも思う。 ただ、性転換という展開はともかく粗筋等でオーランドーを「両性具有」と呼び表すのはどうかと思う。『自分だけの部屋』(未読)のウルフ自身の言から取られた表現の様だが、少なくとも身体的にオーランドーが両性具有となる描写は作中にはない。またアイデンティティにおいても男性時は男性として、女性時には女性として表現されており、アイデンティティの混乱が描かれた場面も見当たらない。粗筋等による「両性具有」の意味合いとしては、実際に男性であった事のある女性という両性を知る精神面での「合一性」を表したものではあるものの、それ自体ギリシャ哲学からそのまま引いた、言うなればバイナリーを絶対とした上での理想としての「アンドロギュノス」であり、インターセックスやバイナリー化出来ないアイデンティティを視野としない表現ではないだろうか。 作中でもオーランドー自身身体的にも精神的にも男女という性別二元論の境を跳躍(≠越境)し、そのまま混乱もなく身体ジェンダーを自らとして受け入れている。つまり、あくまで男/女というバイナリーを保存したままの表現に留まっており、そこにフルイディティやグラデーションの意図を読み取るのは難しいのではないだろうか。 作品モデルのヴィタ・サックヴィル=ウエストの影響やウルフのブッチ/ダイクへの欲望、また強固にジェンダー化された服飾文化によって規定される男女ジェンダーの強制化への批判としての異性装をフルイディティやグラデーションと捉えるのも可能かもしれないが、それらの描写からアイデンティティの越境の気配は感じられるだろうか。この辺りは個人の感性にもよる所が大きいとは思うが、個人的にはそれらの描写の中でも女オーランドーのアイデンティティは安定して「女性」だった、と読めた。 時代的制約を加味すればここまで強い批判は必要ないと思われるだろうが、現在の粗筋等における表現にも関わっている所なので、あえて強い批判を置く。多層で多面な一語一文が軽々と立ち現れては消えてを繰り返し、作品を知れば知る程文脈も物語も混乱をもたらしながらの軽妙で楽しいスラップスティックであるが、確かに底には性別二元論が横たわっている。
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