
あんどん書房
@andn
2026年6月13日

群像 2026年 5月号
講談社
2026年度上半期芥川候補作品に選ばれた小砂川チト「ゾンビ回収婦」を読んだ。
雪山にあるホテルで働く「わたし」。そこでは日夜ゾンビと人間との戦いが繰り広げられ、銃やグレネードランチャーをぶち込まれたゾンビたちが爆発四散する。そんなゾンビたる「あなたたち」の肉片を回収し、ホテルを清潔に保つのが「ゾンビ回収婦」である「わたし」の仕事である。
というのが、一つ目の世界。もう一つの世界において「わたし」は夫とほぼ同時に解雇を言い渡される。AIに仕事を奪われたことに憤る「わたし」をよそに夫はおかしなテンションになり、これからはやりたかったことだけやると言って家を出ていってしまう。残された「わたし」が夫の部屋で見つけたのが、VRのヘッドセットとFPSゲーム『プラグの抜かれた丘』であった。
つまりゾンビ回収の仕事は全てVR空間の話なのだが、「わたし」にとってはもはやこちらの世界のほうがリアルになっている。
“なによりもこの視界は、三十余年わたしの生きてきた主観よりも、ずっと主観的なのだった。わたしはいま生れてはじめて、ちゃんと身体のなかにいるような気がしていた。”(『群像』2026年5月号/ P21)
リアルであるはずのほうの現実世界において「わたし」は乖離してしまっている感じなのだが、その原因になっている呪いのようなものが徐々に見えてくる、というのが作品の軸になっている。
作中において、不思議な立場逆転が発生している。そもそもこういうゲームにおいて死体とかのオブジェクトは一定時間で消えたりするのが普通だと思うが、「わたし」の目の前で爆散したゾンビの肉片は消えてゆかない。それは「わたし」が本当の清掃NPCである通称「グッドニュースさん」を殺してNPCの立場になり変わってしまったからだ。ここで、AIに仕事を奪われた人間がAIの仕事を奪うという逆転が発生している。
また「わたし」の物語の合間に現れるミーシカという男も、電子世界を保つために「見えない業務」に取り組み、AIの痛みを取り除こうとする。
彼らの抱える痛みが交差して共鳴するのが、中盤に出てくるカウンセリングの場面。ここを読んで真っ先に連想するのは昨今何かと話題になる「チャッピーにお悩み相談する若者たち」だった。
中盤以降が色々と事態も起こり錯綜していて混乱するのだけれど、「わたし」の抱える傷というのは過度に内面化された能力主義の呪いだと思う。
“急げ、急げ、結果出せ。急げ、急げ、ミスすんな。改善しろ向上しろ発展しろ進歩しろ、死んでもミスすんな、進化しろ。そういってさんざん機械みたいにあくせく働かせておいて、今度は「ミスすることこそ人間固有の愛らしさ」ですって。そういうことになったんですって。”(P50)
子どもの頃から蓄積してきた呪いのような言葉たち。愛情に飢えた「わたし」は傷つきながらもそれらを求めてしまう。
“わたしの生き死ににかんしてなんらかの権限を持った人物が出現するとわたし、そのひとのことで寝ても覚めても頭がいっぱいになって、自分の意思や価値といったもの、すべてまとめて箱に詰めてりぼんまでむすんで相手にみんな、みんなみんな明け渡してしまうのです”(P55)
「わたし」がゾンビ回収の仕事に勤しむのは、認められたく、感謝されたく、褒められたいからなのだ。たとえそれがただのゲームであったとしても、AIにできる仕事であったとしても、「わたし」はそこに安心を見つけ、そこでのみ主体を取り戻すことができる。
作中で登場するゾンビ、「わたし」が「アラスカ」と名付けた個体は他のゾンビとは異なる挙動をする。戦闘が始まると人を襲わずに逃げ隠れする臆病なゾンビ。彼はその初語(初期値)として「ᐃᓄᒃᑎᑐᑦ(イヌクティトゥット=人間らしく)」を与えられた存在だった。
AIが人間に代わって仕事をする時代。仕事を失った人間は何をすればよいのか。(早々に振り切った「夫」のような人間もいる一方で、「わたし」のようにアイデンティティ喪失してしまう人間もいるだろう)
果たして「人間らしさ」とは何なのか。そこを問うている作品だと思う。
余談だがバーチャル世界から帰れないとか開発者の孤独が世界に溶け込んでゆくあたりの構造は、コナン映画のベイカー街を連想した。
続いて掲載の舞城王太郎「ベルゼバビブベボ」は逆方向に向かうような話で、この二作が並んでいるのは面白いなと思った。