くりーむ "ベル・ジャー" 2026年6月14日

くりーむ
くりーむ
@cream
2026年6月14日
ベル・ジャー
ベル・ジャー
シルヴィア・プラス,
小澤身和子
『ベル・ジャー』は、「I am I am I am」というシリーズの第一回配本で、シリーズ名は『ベル・ジャー』に(2回)出てくる「I am I am I am」という一文 から取られているそうです。この文は、最初に、主人公のエスターが海で自殺しようとするところにでてきて、次に、同郷のジョアンの葬儀の終わりあたりに出てきます。非常に印象的ではあるものの、作品中におけるこの文は、いまひとつ、どういう言葉なのか、その射程が判然としない感じがあります。特に、2回目に登場する、ジョアンの葬儀では唐突な感じがかなり強いです。ジョアンの死・その埋葬のイメージを、突然に自分自身に引っ張り戻してくるように「わたしは、わたしは、わたしは。」という言葉が出てくるのですが、「ジョアン」と「わたし」がいかにして結びついているのかは、よくわかりません。ただ、この結びつきは、シンプルではないかもしれません。「I am I am I am」という言葉がでてくるとき、エスターは己の胸の高鳴り・心臓の鼓動を聞いています。それは、自己の思考の行き着く先・自問の終端となる言葉としての「I am」というよりは、寧ろ、エスターが世界を受け取ったときの、エスター全体にわたる反応に対する言葉としての「I am」である、と言ってもよいでしょう。その意味では、ここで出てきている 「I」 というのは、世界を感じ取る「私」、なのかもしれません。より積極的に解釈すれば、「私」に照射してくる世界を「私」と結びつけておくための言葉が、「I am」であるようにおもえます。エスターは、いくつかの自殺試行の末、「自分の体には、瀕死な状態になると手の力が抜けるというような、幾度となく体を救おうとする小さな仕掛けがいろいろとあることを知」ります。 エスターは、自分に向けられる女性差別(尤もそれだけではなく、自分が虐げられていると感じられるようなすべてについて)に敏感で、「わたしは打ち上げられる花火から放たれる色とりどりの色とりどりの矢」でありたいと願います。その「色とりどりの矢」であることと、世界を私に結びつけておくことは、無関係ではないように感じられます。 その一方で、エスターは、今で言うところのバッドガールで(50年代にそういう言い方があったのか、私にはわからないです)、決して、何色にでも染まることのできる純白な存在でないことは明らかです。上で述べたことと、このことのバランスは、あまりよくわかりません。とはいえ、エスターのバッドガールぶりは、最悪で最高、だとしかいいようがなく、そして同時に孤独なものです。「男の子」たちを自分が自由になるための徹底的な手段とみる発言、黒人やレズビアンに対する差別、年上の・面倒をみてくれる女性たちに対する「手をかけて影響を与えた代償として、わたしを自分たちみたいにしようとしてい」るという反発などなど……。そういう一種の青春小説として読んでみてもおもしろいです。しかし、明らかに『ベル・ジャー』は、背後にある社会的な状況を意識した作りになっているので、それだけでも物足りない感じもします。
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved