
阿久津隆
@akttkc
2026年6月7日
読んでる
「あなたは返じをくれません。受けとっているのは知っていますハンドバッグに入っているのを見たのです。すぐに返じをくれた方がいいと思いますわたしは熱にうなされて眠ることもできないやけになった男です。あなたを傷つけたりはしませんがやけになった男なのです。憶えておいてくださいあなたを傷つけたりはしませんがやけになった男なのです」という手紙をナーシサは受けとって、なかなか「わたしはやけになった男です」という自認を見ることはない気がして、新鮮で、新鮮なおぞましさで、しかしナーシサは読んでいるのか読んでいないのか、ベイヤードの部屋を訪れては本を朗読して過ごし、ベイヤードがギプスが取れて動けるようになるとドライブに出た。もう二度と速く走らせたりはしないと約束をしていた、二度約束した、最初ナーシサは心配したが、走っているうちに十分にベイヤードが理性的であることを見てとって安心した、リラックスして助手席に座っていた、松の木々がさわやかな香りをあたりに漂わせていた、丘の頂上をこえて、下って平らになってまっすぐ伸びていく道が向こうに見えて、ベイヤードが「あそこだ」と言った。
p.356
「あそこ?」と彼女は夢を見ている人間のように繰り返した――が、それから車が再び速度を増しながら前進していくと、彼女は我に返り、彼の言葉の意味を理解した。「約束したでしょ」と彼女は叫んだが、彼はスロットルレバーをぐいと歯止めの下におろした。彼女は彼にしがみつき、金切り声をあげようとした。しかし声は出てこなかったし、狭い橋が踊りながら猛スピードで向かってきたときに目を閉じることもできなかった。さらに、車がトタン屋根を打つ雹のように鋭い反響音を立てながら、立ち並ぶ柳と激しくきらめく水面のあいだを走り抜け、次の丘を駆けめぐっていったときには、彼女の呼吸は、そして心臓も、とまらんばかりだった。
車が停まるとナーシサは泣きじゃくって、僕も涙がこぼれるのを感じた。ベイヤードは「そんなつもりじゃ――」とばつが悪そうに言って、「ただ、やれるかどうか試してみたかったんだ」と言って「そんなつもりじゃ――」と言おうとして、僕は涙が広がるのを感じた。これはしんどい。やむにやまれぬことがこれであるということ、それがしんどい。