村崎
@mrskntk
2026年6月21日
悲しい話は今はおしまい
小沼理
読み終わった
すごい、なんというか考え方が私と似ていて読んでいてすごく安心感があった
考え方というのは、もちろん厳密に言えばぜんぜん違うだろうし立ち場も異なるんだけど、喜ぶことに後ろめたさや罪悪感があること、なにか行動しないといけないという不安や焦り、行動した先で疲弊、消耗すること、それでも自分は恵まれているほうなのだと思うと、つまるところ自分を許せないかんじ、全部わかるし、わかるからこそ希望を見出すために悲しい話をおしまいにして、些細なことでも自分が楽しい、嬉しいと思うことを探してゆくという考え方はとても励まされるものだった。
もちろん悲しい話を一切しないということではなく、悲しい話も必要であるというのは大前提で、でも現実問題として悲しい話という視点で物事を考えると、どうしてもキャパオーバーはおとずれる。
社会問題という大きな括りに対して、個人ができることというのは限られているし、その個人でできることについてもやはり差があって、自分はなんて無力で能天気に生きてるんだろう……と絶望することも多々ある。
でも、社会問題に向き合うために必要なことは悲しい話だけじゃなくて、やっぱり楽しみや喜び、それがないと原動力にならないし、そもそも自分の生活もままならない。
私は自分をあえて属性に振り分けたとき、だいたいのことがマジョリティになるとおもう、マジョリティとして生きてきて、ほとんどなんの不都合もなく制度やこの社会のありかたを享受できてしまっていることに罪悪感をおぼえている。マジョリティである自分が何を言っても、差別や迫害を受けてしまっているマイノリティのひとたちにとっては、「でも結局あなたマジョリティですよね」と思われてしまうんじゃないかと不安になることもある。
でもじゃあだからマイノリティの属性になる?転向?するというのはまったくとんちんかんで、当事者ではいとしても、他人に心を寄せるという、人間として当たり前に大切なことを忘れたくはないと思う。そして他人に心を寄せる人間がもっとたくさん増えるといいと思う。そのためには、社会全体に余裕が生まれることが必要で、そうするとやっぱり社会問題に目を向けないといけない、堂々巡りな気もしてしまうけど、そうやって考えることがまず、堂々巡りの外側への一歩なのかもしれない。
まいにちのほほんと生きたいし、楽しいことだけしていたいし、でも、それはもう無理なんだと思う。ちゃんと悲しい話もしないといけないし考えないといけないと、認めて生き続けないといけない。だからこそときどき悲しい話はおしまいにする。




