
たま子
@tama_co_co
2026年6月21日
トピーカ・スクール
ベン・ラーナー,
川野太郎
読書日記
コラージュ
読みながら「世界を組み替えるいくつもの瞬間」というフレーズが脳内をリフレインしていた。今どの瞬間の断片を読んでいるのか分からないまま、痕跡を拾い集めるように読み進める。その道中で、本の外にいる自分の記憶や、書き手の気配、登場人物たちの意識が入り混じり、本の中と外とがコラージュ的に再構築されるようなふしぎな感覚になる。
「現在の彼のささいな動作と姿勢のどれほどが、身体にあらわれた過去の反響、意識の真下にあるものの反復なのだろう?」
ーp48、p152
ふせんを貼った箇所を読み返すなかでアダムとダレンの意識の共通箇所に気づく。経験の数々は自分だけに留まるのではなく、関わるひとびと、特に近くにいる家族や友人に、自然と反復されるのだとしたら、言葉にしないままに身体が共鳴し、無意識のうちに自らに取り込んでいる、ということが無数にあるのかもしれない。断片の集積としてのわたし。
競技ディベートや政治言説など、対話のためではなく勝利のために使われる言葉。そして語らないことで意思を表明する、雄弁な沈黙。言葉はときに喉元をふさぐ。だけどこんなにも言葉に頼り、言葉を信じてしまう。昨年に引き続き言葉のもつ効用について考えている。言葉は暴力にも祈りにもなりうるし、誰かが飲みこんだ言葉の方にこそ知りたいことがつまっている気がして、でもそれは目の前には現れない。そういう不自由のままに話すのがたのしいのもまた、しかり。
ふせんを辿りすきな場面を思い返しながら、わたしは景色が立ち上がり、音や匂い、温度がする場面がすきなのだと気づく。あまりに体験として読んでいるので、クラウスが「深淵な真実の反対は」(休止、スプリンクラー、昆虫、芝刈り機の音、街の喧騒の不在)「また異なる深淵な真実でありうる」と言ったシーンの目の前にいるのが、知らぬ間に自分にすり替わっていて、あれクラウスは誰と話していたのだっけ?となり、ぶるりと寒気がした。この一人称が曖昧になる怖さと、その美しい瞬間を自分が目撃したような感動をじわじわ味わい、これだから読書はたのしい。
クラウスが傾いた絵画を直すときの無声映画俳優のようなアイロニー、美術館でトリップしたジョナサンが絵画よりも額縁についた焦げ跡に目がいく永遠の一瞬、ベッドの上でのアンバーの語り……脳裏にこびりつく「いくつもの瞬間」は思い出すたび、どんどん鮮やかに、そして自分好みに変化していく。
「いつも、いちばん確かなものが夢のなかに溶けて、夢は確かさのなかに溶けていく」
ーp322









