
おいしいごはん
@Palfa046
2026年6月23日
増補 ネガティヴ・ケイパビリティで生きる
朱喜哲,
杉谷和哉,
谷川嘉浩
途中なので今後流れが変わるかもしれないが、p.200あたりから複数のクラブ(プライベートな集団)に所属する話が出ている。すごく大事な話だと思う。複数の集団に所属することが肝要という指摘はよく聞く話だが、ここでいうクラブのレベルで集団に所属するのは難しさを伴うように思う。
基本的に集団は共同性や目的を共有することで成立すると考えているが、自身の語彙や思想に影響するほど、あるいはそうした仲間内での語彙を聞ける立場になるくらい十全に参加するためにはある程度のコミットメントが必要になるのではないか(自身の属性と異なる異邦の集団においては特に)。
そうなると阿比留さんが『子どものための居場所論』で指摘するような過剰居場所化(阿比留 2022:20-21)が引き起こされてしまい、本末転倒になるのではないだろうか。
この話題の前でも仕切りに落とし所とされる「バランス」をこの話題でどう考えるのか気になる。





おいしいごはん
@Palfa046
「(読書など)所属しないまでも、自分がいないクラブやコミュニティのことをよく知る手段はあるはずだということですよね。社会学者の岸政彦さんが「隣人効果」と言うのもそれですね。」(p.210)
「イントロの文章で、谷川さんが書いているバングラデシュのYouTube チャンネルもそうだし、岸政彦さんを中心に、生活史やナラティヴの本が実際に売れているという話もよく聞くので、公共性や政治の領域に回収されない、生の言葉遣いに触れることに潜在的なニーズがあるのかも。僕らはそこが足りてないという感覚を持っているのかもしれないですよね。」(同上)

おいしいごはん
@Palfa046
「プライベートなものを扱う言葉遣いが足りないということについて、私も思考の刺激を受けていろいろ考えて、ふたつのことを思い出しました。まず、評家の荻上チキさんが「みらいめがね2 苦手科日は「人生」です」(暮しの手帖社)という本で、「金づちしか持っていない人はすべての物が釘に見える」という格言を押し広げて、「限られた語彙しかなかったら、すべてがその語彙で理解されてしまう」という話をしていたんです。これがひとつ。もうひとつは、上間陽子さんと信田さよ子さんの対談本で、信田さんが、性被害を受けた方のカウンセリングでは、ある局面で特定の言葉を禁じるって言っているんですね。(中略)わかりやすいストーリーに回収するような熟語、定型化されたパターンに回収されやすいそうな言葉を禁止する。前回の「ナラティヴ」みたいな話ですけど、「ああ、そういうことね」という手近な理解に回収させないように、特定の語彙を禁じるんだっていうんです。
これに対して、対談者の上間さんが切り込んで、「言葉を禁じると何が残りますか」と言ったら、「それはね、うーん、比喩ですね。そう比喩の豊かさです」と言ってたんですよ。(後略)」(211-212)

おいしいごはん
@Palfa046
個人的には、p.226で杉谷さんが「自分たちの想像が及ばないような人々の生活があることに想いを馳せる」という言い方をしているけれど、想いを馳せることに落とし所があるのではないかと思う。そして、それはローティが言っているらしい「訂正可能性」の話とも通じるように思う。
その後に出てくる「観察」に重きを置いていないのは、観察の理論負荷性という概念があるように、「観察を頑張ることで自分の見知らぬものに気付ける」というのは少しナイーブな考えに感じているから。(だからといって観察がダメとかではなく、一つの大事なアプローチだと思っている)

おいしいごはん
@Palfa046
媒介を挟んで距離を作ることで自分が素直に受け入れられない文脈に想いを馳せる契機としてのフィクション(249-250あたり)。
一方でそれ自身は動機になり得えないという話(255-256あたり)
また、(理解があっているかは分からないけれど)遠いからこそ単純な理解に陥りがちな歴史の話。