はな "ハンチバック" 2026年6月25日

はな
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@hana-hitsuji05
2026年6月25日
ハンチバック
ハンチバック
市川沙央
紙の本を手に取った時は、描写の生々しさに耐えられるかわからず一旦棚に戻してしまった。 YABUNONAKAを読んだ後すぐKindleで見つけて、金原ひとみに「開腹手術みたいな本はKindleで読みな」と言われたような気がして読み始めると、この本は電子書籍で読むことで体感出来る部分があって、作者が紙の本に対して「5つの健常性を満たすことを要求している」と憎む部分について長く考えた。 私は読書する時、聞き手がいつも炎症で痛い。でも膝に乗せたり反対の手でページを押さえたりめくったりは出来る。 それでも痛みが没頭を邪魔するなと感じることがある。もし自分が読む時、もっと痛みが酷かったり、肺が潰れて背骨が曲がるように感じていたら、読むのを諦めることもあると思った。 どうも電気が発明されてから、部屋の灯、TV、電化製品…とものすごい速さで発展してくる過程で、悪影響もクローズアップされがちだけど、結局便利になるということは不便に感じていた人がいたわけで、それがなくても不便をあまり感じずに生活出来る人が「なんだか手抜きに見えるな、怠けることを覚えると依存して危険だな」と危惧している面も多いような気がする。 カタカナ苦手で、言葉と概念がイメージとして結びつきにくくて苦労している「インターセクショナリティ」を思い出し、この物語の中で身体的、経済的、性別的に限りなく優位性が高い属性を持っていても頂点には立っていないし、全てにおいて低いとジャッジされる属性さえ、ちょっと視点をずらすと優劣が秒でスイッチを切り替えるようで、その描写を思い描くと凄まじい気持ちになり「オアシス」という韓国映画のことを思い出した。 何が正しいとか、誰が弱者だとか、なんなんだろうかな。でも世の中が一部の人の無知と傲慢と無自覚さで成り立っていることは確かで、価値基準や世界線が違うことに気づきにくいから、発信されると衝撃を受けてひるむ。「一部の人」は固定化されているようにも見えて流動的でもある。これまで全く気づかず生きてきて、当事者や事実と対峙してもう戻れなくなる。 YABUNONAKAの伽耶のことも思い出した。 自分が欲していないものを誰かが欲しがったり傷つけられたと感じても、彼女にはうまくわからない。 これまでの自分から1番遠くで起きていることに対して、放置したり見なかったことにすることが限りなく可能な状態で生きてきて、それを引き寄せるためには知るしかない。 色んな本を読めば読むほど、誰かの世界を知れば知るほど、自分の世界が想像より遥かに小さいものだと気付くことしか出来なくて愕然となってる。 私くらいの読書量と理解でこれほど衝撃を受けているのだから、生業としてこういう事柄に触れて文学にしてきた人たちの衝撃は想像以上だろう。 ちなみに往復書簡は、なんだか絶妙な距離感の2人が探りながらしたためあっているのが所々に感じられて、やはり他人の手紙など読むものではないなと気恥ずかしくなった。 日本語で書いてあるので、読めば意味はわかるし、わからない言葉を使われていても調べればわかるのだけれど、お互いのことだけを見つめあって会話している2人の間に「私もそれ思った!」とか口を挟めない雰囲気で黙って微笑む自分を想像してしまった。 授賞式のドレスを褒めてるところに差し込めないよ…。高尚過ぎんか。 でも手紙とか文章って本当に脳内で考えてるままを書き起こすから、後から読んで小難しい言い方してカッコつけてるみたいなってるやん、酔ってるみたいやんと自分でも恥ずかしくなること多々あるけど、嘘か本当かと言われたらそのクササもその時の真実ではあるので仕方ない。 この気恥ずかしさは共感性羞恥なのか。
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