
中根龍一郎
@ryo_nakane
2025年3月25日

読み始めた
人は自然を理想化してしまう。そしてその理想化には時代ごと、文化圏ごとのさまざまなパターンがある。流行があり伝統がある。そしてある時代や文化のなかで生まれた文学作品や写真作品が、その属する時代や文化においては実はあるていど異端なものでありながら、受容され、あるいは忌避されていくなかで、その時代や文化における自然観、動物観を補強してしまうことがある。
『快楽としての動物保護』というやや挑発的・扇情的なタイトルとは裏腹に、市井に形成される素朴な自然観・動物観に坦々と注目した研究はとてもおもしろい。たとえば理論化された動物倫理学や環境倫理学が「なぜ動物を・自然を守らねばならないのか」という理路についてあるていど普遍妥当性をもつように語ろうとするのに対し、この本で取り扱われる動物観・自然観についての事例は、ずっとナイーブな語りで、かなりのところ情緒的に、対立する動物観・自然観を説得しようとしている。というのも、さまざまな物語作家や芸術家の事例から動物観・自然観の形成を読み解こうとするこの本で取り扱われている語りは、倫理学的なものというより美学的な語りであり、そもそも文学論や芸術論だからだ。というより、文学論や芸術論が倫理的な主題に嵌入してしまっている(いた)歴史上の現場が見えてくるというほうが近いのかもしれない。
シートンがアメリカの文学界から忘れられる原因となったというネイチャーフェイカー論争や、思想的に(ややねじれた形で)大きな影響を与えたというネイチャースタディー運動の話(その背景に影を落とす単純化されたダーウィン進化論の影響)を、19世紀末アメリカの文化史として描き出す第一章を読み終えて、一息ついている。
文学、写真、映画という各時代を代表するメディアと、そのメディアを代表するある固有名に焦点を当てていく構造で、文学(シートン)の章のあとには写真の章が続く。写真を代表する固有名は星野道夫ということになっている。しかしシートンの章でも、実際のところシートンよりもその周縁の人々(平岩米吉やジャック・ロンドン、大統領にしてナチュラリストのセオドア・ルーズベルト)についての記述が色濃く、面白かった。星野道夫の章もそうなるのかもしれない。
文学の章では、文学が自然の動物の姿を描写する時にどのような自然観に立つのがよいのか、という点において、正しい自然観をめぐる衝突が描かれていた。話が文学なら、文学にフィクションが入り込むこと自体にそれほど抵抗感は覚えない。しかし過度に擬人化された動物の描写は市井の動物観をゆがめ、ひいては動物に不当な振る舞いを引き起こす、というロジックなら、なるほど、うなずける。そこには道義的な問題があるからだ。その問題を考える時、どうしても『リトル・トリー』を思い出してしまう。虚構のチェロキー・インディアンの、嘘と誤りが含まれる、しかし感動的な児童文学作品としての『リトル・トリー』は、私にとって大事にしたい読書体験をもたらした本であり、しかしもはや肯定的に評価することができない本でもある。
写真の章を少しだけ読んだところでは、星野道夫の話に入る前に、アメリカで話題になった、アート・ウルフによる写真集『マイグレイションズ』を扱っている。野生動物の写真において、ある奇跡的な瞬間を写真の上に立ち上がらせるためにコンピューターを用いて画像加工を行い、大きな論争を引き起こした写真家だという。写真に施された加工が(嘘が、フェイクが)ある動物観や自然観を後押しし、あるいは新しい動物観や自然感を立ち上がらせるとしたら、それは文学の場合とどのように違い、どのように似ているのだろう。
