快楽としての動物保護 『シートン動物記』から『ザ・コーヴ』へ

快楽としての動物保護 『シートン動物記』から『ザ・コーヴ』へ
快楽としての動物保護 『シートン動物記』から『ザ・コーヴ』へ
信岡朝子
講談社
2020年10月9日
3件の記録
  • 独りよがりではいけません
  • 星野道夫の第二章、『ザ・コーヴ』の第三章を読み終わった。「エコロジカルな他者」として求められたネイティブ・アメリカン、エスキモーやインディアンが権利回復運動や土地所有問題のなかでそのイメージを逆利用したこと、にもかかわらずその「エコロジカルな他者」像が近代アメリカの求める理想像でありそもそもの先住民たちの生き方と噛み合っていなかった問題は、『リトル・トリー』の(悪い評価の)思い出とも重なって、興味深かった。「泣くインディアン」のポスターを演じた俳優が、自らをチェロキーとクリーの血を引くと主張しながら、実際はイタリア系移民の二世だったと考えられているというエピソードからは、フォレスト・カーターの出自の詐称のことを否応なく思い出す。 星野道夫もまた1970年代以降のヒッピームーブメントとからんだzenブームのなかで、自然を愛する日本人像としてフィルタリングされていたことは、自分がしばしば「日本人は自然を愛する」「自然がいっぱいっていいね」という価値観のなかで育てられていたこととも相まって、人が「外からのイメージ」をいかにまとおうとするのかを考えさせる。 親はしばしば私を山歩きや海水浴や農業体験につれていき、子供のころはそれらをそれなりに楽しんだが、一方で、行き帰りの車では本を読んでいたし、山歩きをしながらずっと本の話や空想の話をし続けて、もっと自然を見なさい、と諭されたこともあった。しかし私は本や空想やテクノロジーの話のほうが好きだったので、自然を愛する日本人になることには失敗した。そのような自然のイメージに両親の世代が感じている特別な愛着に共感することはむずかしかった。本を通して60年代、70年代、80年代を追体験することで、なんとなくその特別な愛着の気配には近づいていく。しかしそれもまたきわめてテクニカルに整理された愛の歴史にすぎない。剥製になった動物の標本を見て、キャプションを見て、その動物記に思いを馳せているにすぎない。 イルカやクジラに対する西欧圏のイメージの変化や、そこに大きな影響を与えているキリスト教圏における動物と人間の序列の問題、存在のステージの時間化の問題はおもしろかった。大田俊寛が近代のオカルト思想を霊性のステージの進化論的応用として考えた霊性進化論のタームと響き合うところがある。そしてSF小説でどうしてあれほどイルカやクジラが宇宙のイメージとリンクするのかという話も少し見通しがよくなった(きわめて雑駁に整理すれば、アメリカのイルカ・ブームは宇宙開発と同時代だった)。 「エコロジカルな他者」を、理想化された自然を体現する他者と言い換えるなら、昔は動物自身が、やがてインディアンやエスキモーが、そして次第にイルカやクジラがその役割を担わされていった歴史は、人間が自らにとってより理想的な他者を(自然保護のモデルケースを)探していった歴史だということもできる。そしてその理想的な他者探しは、他者のなかに自分自身の欠落や伸長を見出そうとする試みのために、どこかで奇妙な脱臼が起こる。しかし自然を失った人類という自己像のなかで、失ったはずの自然を外部に見出そうという試みは、実は最初の問題設定がかなりのところ物語的であるような気がする。われわれは本当に自然を失ったのか……というよりも、自然を失ったという物語がわれわれに深く刻まれてしまっているとするなら、それによってわれわれはどのように行為してしまい、どのように挫折してしまうのか。そのように、自らにない(とされている)ものを求めて手を伸ばす試みが、わずかにそのない(とされている)ものに触れた時、そこには快楽がある。しかしそれは子供が自分で隠したものを見つけて喜ぶような、心の底からのものであるとともに、きわめてフィクショナルで、どこかものさびしい快楽でもある。
  • 人は自然を理想化してしまう。そしてその理想化には時代ごと、文化圏ごとのさまざまなパターンがある。流行があり伝統がある。そしてある時代や文化のなかで生まれた文学作品や写真作品が、その属する時代や文化においては実はあるていど異端なものでありながら、受容され、あるいは忌避されていくなかで、その時代や文化における自然観、動物観を補強してしまうことがある。 『快楽としての動物保護』というやや挑発的・扇情的なタイトルとは裏腹に、市井に形成される素朴な自然観・動物観に坦々と注目した研究はとてもおもしろい。たとえば理論化された動物倫理学や環境倫理学が「なぜ動物を・自然を守らねばならないのか」という理路についてあるていど普遍妥当性をもつように語ろうとするのに対し、この本で取り扱われる動物観・自然観についての事例は、ずっとナイーブな語りで、かなりのところ情緒的に、対立する動物観・自然観を説得しようとしている。というのも、さまざまな物語作家や芸術家の事例から動物観・自然観の形成を読み解こうとするこの本で取り扱われている語りは、倫理学的なものというより美学的な語りであり、そもそも文学論や芸術論だからだ。というより、文学論や芸術論が倫理的な主題に嵌入してしまっている(いた)歴史上の現場が見えてくるというほうが近いのかもしれない。 シートンがアメリカの文学界から忘れられる原因となったというネイチャーフェイカー論争や、思想的に(ややねじれた形で)大きな影響を与えたというネイチャースタディー運動の話(その背景に影を落とす単純化されたダーウィン進化論の影響)を、19世紀末アメリカの文化史として描き出す第一章を読み終えて、一息ついている。 文学、写真、映画という各時代を代表するメディアと、そのメディアを代表するある固有名に焦点を当てていく構造で、文学(シートン)の章のあとには写真の章が続く。写真を代表する固有名は星野道夫ということになっている。しかしシートンの章でも、実際のところシートンよりもその周縁の人々(平岩米吉やジャック・ロンドン、大統領にしてナチュラリストのセオドア・ルーズベルト)についての記述が色濃く、面白かった。星野道夫の章もそうなるのかもしれない。 文学の章では、文学が自然の動物の姿を描写する時にどのような自然観に立つのがよいのか、という点において、正しい自然観をめぐる衝突が描かれていた。話が文学なら、文学にフィクションが入り込むこと自体にそれほど抵抗感は覚えない。しかし過度に擬人化された動物の描写は市井の動物観をゆがめ、ひいては動物に不当な振る舞いを引き起こす、というロジックなら、なるほど、うなずける。そこには道義的な問題があるからだ。その問題を考える時、どうしても『リトル・トリー』を思い出してしまう。虚構のチェロキー・インディアンの、嘘と誤りが含まれる、しかし感動的な児童文学作品としての『リトル・トリー』は、私にとって大事にしたい読書体験をもたらした本であり、しかしもはや肯定的に評価することができない本でもある。 写真の章を少しだけ読んだところでは、星野道夫の話に入る前に、アメリカで話題になった、アート・ウルフによる写真集『マイグレイションズ』を扱っている。野生動物の写真において、ある奇跡的な瞬間を写真の上に立ち上がらせるためにコンピューターを用いて画像加工を行い、大きな論争を引き起こした写真家だという。写真に施された加工が(嘘が、フェイクが)ある動物観や自然観を後押しし、あるいは新しい動物観や自然感を立ち上がらせるとしたら、それは文学の場合とどのように違い、どのように似ているのだろう。
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