
時間のかかる読書人
@yoko45
2026年6月25日
開かれた対話と未来
斎藤環
読んでる
@ 自宅
バフチンによれば、権成的な言説は人々がそれを四の五の言わずに受け入れ、呑み込むことを要請します。しかしそうした発話の影響力はごく限られていて、ともに思考を発展させるような力がありません。
もし私が他者に対して、私の考えをまるごと受け入れさせるべく躍起になっているとしましょう。そのとき、私の考えと異なる視点は余計なイズ、すなわち取り除かれるべき障害にしかなりません。その核心には、ある種の(巧まざる)期待があります。つまり、人々は「実際に視座を共有したり、同じように考えたりすることができるはず」というような。あるいは「他者性が同一性によって置き換えられうるはず」というような。
そのためには私のほうから説得したりプレッシャーをかけたりしなければなりませんが、そうすることで、そのうち他者は、物事をしかるべきやり方で見たら行ったりするようになるでしょう。つまり私のやり方で、です。
一方、対話的な言説は制限なく開かれており、他者とともに考えようとします。対話は人々が同じようになることを求めません。その反対に、他者の持つ根源的でゆるぎない異質性こそが、対話を可能にする当のものなのです。他者は私自身と同じように1つの自己であり、異質な自己であり、私が彼(女)を完璧に把握したり、彼(女)が私を完璧に把握したりすることなどありえません。
バフチンはこう問いかけました。「もし私が他者と融合してしまい、二者ではなく一者しか存在しない状況になったとしたら、誰がどうやって事象を豊かなものにしてくれるのか?」と。そしてこう続けます。
「他者が私と融合することで得られるものとは何か?もしそんなことが起こったら、彼(女)が私以上の知見を持つこともありえないことになる。
彼(女)はただ私のキャラクターを真似るだけの存在になってしまう。彼(女)には、あくまで私の外部にとどまってもらうほうがよいのだ。なぜならそのポジションにあってこそ、彼(女)は私の立場からは得られない知見を持てるわけで、それこそが私自身の生活を本質的に豊かなものにしてくれるはずなのだから」