開かれた対話と未来
16件の記録
時間のかかる読書人@yoko452026年6月30日読んでる@ カフェ興味深いことに、最も疎外されたクライアントに手を差し延べるのは、ディスカッションの場でみずからも周辺的な位置にいるスタッフの場合が多い。ここで私たちは「同型パターン」というものに目を向けなければなりません。そこにおいては、相互作用のモードがシステムを横断するからです。
時間のかかる読書人@yoko452026年6月30日@ カフェ人は人生の主体として、客観的な事実を考慮せずにはいられません。しかし「客観的な事実」の意味は、主体ごとに異なります。つまり異なることこそが、客観的な事実です。視点はつねに誰かの視点であるがゆえに、主体は客観的な視点は持てません。しかし主体がみずからの視点に依拠した主観を持つことは、客観的な事実なのです。解釈学においては、客観性は間主観性として理解されることになります。
時間のかかる読書人@yoko452026年6月29日読んでる@ 自宅しかし、完全に権力関係のない関係性などありえない、ということは指摘しておくべきでしょう。ミッシェル・フーコーは、権力関係はどこにでもあると主張しています。「この社会のあらゆるところに、男女間でも、家族間でも、先生と生徒のあいだでも、知っている人とそうでない人とのあいだでも、権力的な関係が存在する(・・・)」これが真実ならば、権力関係から抜け出すことは不可能です。それゆえ、以下の点に注意が必要です。「権力関係それ自体は善でも悪でもないが、危険なものにはなり得る。だから、あらゆるレベルで、権力がその力を振う向けるやり方において、なにが最善の道であるかが考慮されるべきであ 为」[Foucaull, 1983]。 対話的な関係も権力関係であり、どのようにしてその力を最善の方向につなげるかを考えなければなりません。オープンに心配事を取り上げること、協働活動を賦活しながら主観的視点のための空間を広げること、他人を変えようという戦略的なやり方を避けること、これらも非対称的関係における権力の行使です。たとえ非対称性を認めており、尊重している場合であってもそうなのです。
時間のかかる読書人@yoko452026年6月26日読んでる@ 自宅第2章「心配事があるなら早めに対話をしよう」読了 ここで言う他者への関心とは、他者がこの世界にただ1つの場所から物事を眺めている、その見方に対する関心のこと。
時間のかかる読書人@yoko452026年6月26日読んでる@ 自宅第3章オープンダイアローグ〜対話実践への道〜読了 他者を条件なしに受け入れることは、心理療法においてとてつもない変化を意味します。つまり、「受け入れること」そのものが重要な変化なのです。
時間のかかる読書人@yoko452026年6月26日読んでる@ 自宅第3章「オープンダイアローグ」対話実践への道 家族をシステムとして見ることは、現在でも問題分析のための1つの方法です。ヤーコにとって「家族ゲーム」を見つけるのは造作もないことですが、彼はもうそんなことには興味も関心もありません。家族を、問題行動をもたらす機能を持った1つのシステムとみなすことは、実に退屈な見方です。なぜなら、システム論的介入をするためには、家庭生活の複雑さや豊かさを犠牲にして、単純な記述に落とし込まなければならないからです。 1つのシステムとして考えるよりも、目の前にある関係性の東全体と向き合う。この姿勢は、治療者とクライアントとのあいだにずっと深い共有体験への扉を開いてくれるでしょう。そんなアプローチが1981年、トルニオのケロプダス病院で、ヤーコとそのチームによって始められました。 その後システム論的な見方は、かつてほど適切なものとはみなされなくなりました。動機づけになるような解釈をする代わりに、対話スペースの生成に照準を合わせるようになります。そこにいたるまでの道のりは、果たしてどんなものだったのでしょうか。

時間のかかる読書人@yoko452026年6月25日読んでる@ 自宅バフチンによれば、権成的な言説は人々がそれを四の五の言わずに受け入れ、呑み込むことを要請します。しかしそうした発話の影響力はごく限られていて、ともに思考を発展させるような力がありません。 もし私が他者に対して、私の考えをまるごと受け入れさせるべく躍起になっているとしましょう。そのとき、私の考えと異なる視点は余計なイズ、すなわち取り除かれるべき障害にしかなりません。その核心には、ある種の(巧まざる)期待があります。つまり、人々は「実際に視座を共有したり、同じように考えたりすることができるはず」というような。あるいは「他者性が同一性によって置き換えられうるはず」というような。 そのためには私のほうから説得したりプレッシャーをかけたりしなければなりませんが、そうすることで、そのうち他者は、物事をしかるべきやり方で見たら行ったりするようになるでしょう。つまり私のやり方で、です。 一方、対話的な言説は制限なく開かれており、他者とともに考えようとします。対話は人々が同じようになることを求めません。その反対に、他者の持つ根源的でゆるぎない異質性こそが、対話を可能にする当のものなのです。他者は私自身と同じように1つの自己であり、異質な自己であり、私が彼(女)を完璧に把握したり、彼(女)が私を完璧に把握したりすることなどありえません。 バフチンはこう問いかけました。「もし私が他者と融合してしまい、二者ではなく一者しか存在しない状況になったとしたら、誰がどうやって事象を豊かなものにしてくれるのか?」と。そしてこう続けます。 「他者が私と融合することで得られるものとは何か?もしそんなことが起こったら、彼(女)が私以上の知見を持つこともありえないことになる。 彼(女)はただ私のキャラクターを真似るだけの存在になってしまう。彼(女)には、あくまで私の外部にとどまってもらうほうがよいのだ。なぜならそのポジションにあってこそ、彼(女)は私の立場からは得られない知見を持てるわけで、それこそが私自身の生活を本質的に豊かなものにしてくれるはずなのだから」
時間のかかる読書人@yoko452026年6月25日読んでる@ 自宅「あなたのここがおかしい」「ここを改めるべき」と相手に伝えることは、その内容が正しいかどうかにかかわらず、意見の押しつけであるがゆえに対話の可能性を奪ってしまう(服従もしくは議論になるため)。相手の主観を尊重し、それを性急に変えるのではなく、むしろ自分のアドバイスの方向を変えてみよう。心配事を自分自身の不安として打ち明け、相手に協力を要請するほうが、実りある対話につながるだろう。
時間のかかる読書人@yoko452026年6月22日読み始めた@ 自宅聴いてもらうことがすでに、変化を促す対話的な関係になるのです。今この瞬間に、他者への驚きや真摯な気配りとともになされる対話は、無限の可能性を秘めています。 「自己」を内的で孤立したものとしてではなく、ポリフォニックな声から構成されたものとして理解することが、「間主観性」の分析につながります。他者の他者性は単なる「外部性」ではなく、ポリフォニックな現実のもとで入れ子状になります。人が他者を志向し、その応答を予測するとき、他者がその人の「内なる」他者となるように。
時間のかかる読書人@yoko452026年6月22日読んでるさまざまな物の見かたを尊重し、多様な視点を引き出す(多声性:ポリフォニー) Eliciting multiple viewpoints 対話実践では、意見の一致を目指すのではなく、さまざまな声の創造的な交換を目指します。そのため、スタッフは次の2つのポリフォニーが引き出されるよう関わります。 (A)外的な(その場に集まった複数の人々による)ポリフォニー: その場に集まったすべての人の声が聞かれ、尊重される場を作ります。また、それが妨げられるような動きに対処します。 (B)内的な(ひとりの人の心の中に存在する)ポリフォニー: それぞれの人が自分の心の中にあるさまざまな考えや経験を探索し、矛盾していることも含めて、言葉を見つけることができるよう工夫します。


