
ジクロロ
@jirowcrew
2026年6月26日

私の幸福論
福田恆存
読んでる
私たちは出発点においても、また終着点においても、宿命を必要とします。いいかえれば、はじめから宿命を負って生れて来たのであり、最後には宿命の前に屈服するのだと覚悟して、はじめて、私たちはその限界内で、自由を享受し、のびのびと生きることができるのです。
(『自由について』)
福田さんの説明する「宿命」とは、ヘーゲル(コジェーヴ)の「本性」に似ている。
「人間の自由は人間みずから所与となっている自己固有の「本性」を実際に否定することである、すなわち「彼がすでに実現し彼の不可能性(すなわち可能性と相容れないものすべて)を規定する可能性」を実際に否定することである。」
『ヘーゲル読解入門(下) コジェーヴ p.120)
「宿命」や「本性」、これをあっさりと受け入れる(あきらめる)世界は、「幸福」を意味する。自由と固有の条件を手放し、思考停止して生きていくこと。『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」に身を委ねてしまうこと。
一方でそれに抗うこと、抗えることができるということ、それが本当の「自由」だと言いたいのではないか。
記号やテンプレートに自分をおさめ、固有の条件を手放すのではなく、その条件下で行けるところまで突き進むこと。
限界を知りつつ、限界に臨むこと。
思い出すのは、地下室の住人」(『地下室の手記』)、ホールデン(『ライ麦畑でつかまえて』)。
そして福田訳でもあるハムレット、マクベス。
いずれの人物も、2×2=4を否定し、2×2=5にしようとする生き様。
その生をもう一度生きたいかどうか。
永劫回帰の問題。
キリストは復活する。漫画『チ』のラファウもまた復活する。
たとえその死が外観的には理不尽であろうとも。