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2026年6月26日
アメリカン・スクール
小島信夫
小島信夫さんの初期の短編小説「鬼」を再読した。はじめて読んだのは 乗代雄介 さんの『旅する練習』で言及されていたから。今回読んだのは江藤健太郎さんがnoteで書かれていた「小島信夫「鬼」のめっちゃおもしろい箇所」という記事を読んで、その「めっちゃおもしろい箇所」をたしかめてみたかったから。
前回読んだときにどう読んで何を思ったかは全然覚えていないから、サラッと読んでしまっていたんだと思う。今回、江藤さんの「めっちゃおもしろい箇所」に注目しながら、わたしなりのそれも探すようにじっくり読んでみれば、その文章自体のおもしろさ、というかおかしさが少しわかった気になったし、内容にも思うところが色々と出てきた。少しこの小説に、少なくとも前回読んだ時よりも近づいた気がした。
「そのあいだ私は何をしていたのだろう。私は何もしてやしない。いや私は見張りをしていただけだ。そして見張りはしていなかった。私はおそらくエンマの表面にエビガニが浮んでは沈み、浮んでは沈むのを眺めつづけていたのであろう。いやそれさえも眺めてはいなかった。なぜなら、ぜんぜんおぼえておらず、ただそういって妻にたしなめられて、そんな気がしただけだったからだ。」
江藤さんのいうめっちゃおもしろい箇所はわりと序盤に登場する。「否定に次ぐ否定。脱臼に次ぐ脱臼」というこの箇所はたしかにその通りだった。ここにはたしかにおもしろいというか、おかしみがある。そのとき自分はなにをしていたのかを考え始め、言葉にしては前言を撤回しを繰り返し、他人に指摘されることで「そんな気がしただけだった」と結局はなにもわからないのである(その後あるきっかけで、その時の行動だけは思い出すのだけど)。
小説でそれを読むとき、そのわからなさは滑稽でもありおもしろいのだけれど、実際に自分の行動、生活を振り返るとき、人ははっきりと「これをしていた」と言えることがどれだけあるだろうか。
肉体的に表面に現れている行動、状況のことだけなら思い出せるし他人に指摘してもらうことも出来るかもしれないけれど、内面にある思考や思索、そこまではいかないような漂う意識をも考えれば、そんなことは殆どいうことが出来ない気がする。ここには、自分とは「違うところがあって笑いたくなる」おもしろさと同時に自分にもあるだろう「言動や状況の不審さ」を「いぶかしみ、怪しく」思う、不確かなおかしさもある。そんな風にも読んでみれば、自分という存在、記憶の不確かさを思い揺さぶられ、少し不安にもなってくる。
小説はその「殆どいうことが出来ないこと」をひとつの言葉に集約、あるいは選択することで、誰もが「わかる」たしかなものにすることも出来るけれど、自分や世界のことをそのまま、出来るだけ漏らさず書き写そうと思えば、こんな文章にならざるを得ないのかもしれない。その自分にもあるだろうわからなさ、不確かさを読み対峙させられれば、やっぱり不安にもなるわけだ。
小説というのは世界をわかりやすく書くだけではなくて、世界のわからなさを書くものでもある。というのはたまに思うことだけれど、これも多分そんな文章で、それで書かれているのは読みたかった小説だ。そこに感じるわからなさや不確かさは、まだどうすることも出来ないけれど、今はそっと抱きしめておきたい。と数日前に読んだ小説のことを雨の日の車中で思ってみている。
ちなみにわたしが「めっちゃおもしろい」というかおかしいと思ったのは
「このエンマというのは実は、江間ということらしく(もっともこれは誰にも聞いたわけでなく、私が想像しただけのことだが)」(「エンマ」は「私」の移り住んだ土地に流れる用水路)
というところ。「想像かよ」とちょっと声にも出して突っ込みたくなるおもしろさも感じるけれど、「らしく」という客観的な根拠や情報に基づいている思わせる発言のあとに、それが主観的で根拠のない「想像」だったとあたかも当然のようにもっともらしく告白してしまう。その思考の流れにいぶかしみ、不審さ怪しさも感じるおかしさがある。というか、この一文で「私」のことを思考の流れの読めない、不確かで不気味な存在にも感じ始め、その後の小説の読み方にも影響を与えられた一文なのだった。
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「私はもっぱら忍耐に耽溺していたのかも知れない」という「私」がこの小説のなかで続ける「忍耐」についても、考えたり書いてみたりしたいのだけど、もうすぐ目的地に着いてしまうから、それはまた今度にしよう。

