しがない "日本近代文学の起源 原本" 2026年6月27日

しがない
しがない
@ooe
2026年6月27日
日本近代文学の起源 原本
柄谷をいつかは読まねばと数年前から思って、今回ようやくBOOKOFFで会うことができた。 そして本書を読んでみると、マジでめちゃくちゃおもしろい。なぜもっと前に読んでいなかったんだろうかと悔やむ。 自分の今まで読んできた新書の知識が、本書を読むにつれ星座のように結ばれていく。この本は自分にとってかなりの衝撃であった。自己哲学にも革新をもたらした。 本書はそこまで難しくない。第一章が難しいと感じても、第一章で言われた本旨は第二章第三章と具体例を共にして敷衍されていく。なので第一章でわからなくても決してめげずに読み続けてほしい。 もっとも第一章の文体には小林秀雄のような散文を感じた。小林秀雄を読んだことがあるからか、自分にはそこまで難しいとは思わなかった。逆に呼吸が合って読みやすいまであった。 そういって本書の解釈が間違っていてはどうにもならないが、例を挙げると柄谷が言いたいのはこうである。 Twitterで「ヤリラフィー」というのがある。最初は拡散されるだけで「ヤリラフィー」という名前も着いていなかった。ただ拡散される動画である。これが柄谷のいう『風景』だろう。しかしそれがMADのように弄られてミーム化する。ミーム化することによって「ヤリラフィー」という語が見られるようになる。そして彼らはミーム化したこの動画のことを「ヤリラフィー」と定着して呼ぶようになる。ここでミームと「ヤリラフィー」が語られるようになる。これが柄谷のいう『倒錯』である。 これが自分の本書の本質部分の解釈である。 また本書では、いくらか抑えて置かなければいけない前提知識というか常識がある。それは富国強兵によって言文一致がもたらされたことなのだが、富国強兵までの教育は『漢文』教育だ。つまり会話は平仮名を交えた口調であるのに対し、教育や何かの書き文句は全て『漢文』だった。それが富国強兵によって『平仮名』に統一されていく。それが「言文一致」ということだ。 柄谷はその知識が全員知っている前提のごとく、言文一致に重点を置きながら淡々と話を進めていく。『漢文→平仮名』の流れを知らないと、なぜ言文一致が文学において、そこまで重要なセンテンスだったのかよく分からないだろう。 そしてそれと共に西洋によって「内面/自己」というものがもたらされた。 言文一致の文章が出てきて内面が可視化されることにより、初めて「内面」というものが問題に挙げられる。つまり最初の方に言った「ヤリラフィー」の例である。 第二章の最後の方で鴎外は「自己というものがわからない」と言う。自己を問題化することで初めて自己となるものが描かれる。そこに「自己」を発見する。これが「倒錯」である。 それは「腹を切る」とそれまで当たり前だったものが、書くということで顕在化し、「腹を切る」という記号になって現れる。そこで初めて「腹を切る、とは?」と疑問になる。 西洋によって「内面」がもたらされたことにより「腹を切る」が顕在化されたのだ。 なるほど。そのように内容を理解してみると、今まで新書で読んだ知識が、どんどん繋がって理解が深まってくる。食わず嫌いせず岩波新書の緑を読んでおいてよかった。『日本の思想/丸山眞男』『近代の政治思想/福田歓一』なんかはその最たる例である。近代の新書は全てそこで繋がっているのだなとしみじみ思う。 特に一番の呼応を及ぼしたのは『善の研究/西田幾多郎』である。なぜ「純粋経験による実在」がそこまで彼にとって重要であったか、それは近代化以前に忘れられた「風景」だからだ。それが彼にとって真の日本人らしさであった。 なので本書を読もうとする人は、この前後に『善の研究』を読むことをオススメする。 しかし賞賛ばかりではない。もちろん批判もある。第三章の『病という意味』。『病牀六尺』と『不如帰』が「結核の倒錯」として語られるのだが、前者については倒錯という考えを改めるべきだと思う。二つの作品に共通する「結核」について、柄谷は「ウイルスや病気ではなく原罪のようなもの、神話化、メタファーである」と語る。それは我々にとっての「癌という病気」を語るのと同じだろう。最近ようやく治る病気として捉えられつつあるが、なにかの作品で癌が語られるときそれは畢竟「死」と結びついて考えられた。癌というそのものがメタファーとして機能した。 しかし、それは第三者から見た現象だからだろう。『不如帰』については倒錯と言っても差し支えないと思う。だが『病牀六尺』は話が違う。話しているのは結核の当事者である正岡子規だ。たとえ彼が結核でなくても、その症状について克明に描いていたのは想像にかたくない。当事者であるが故にメタファーや神話化にはなり得ない。自分はこの点を批判する。つまり、観念は風景になり倒錯であるが、実態として、概念は倒錯になりえない。それを倒錯と括れるのは第三者の特権である。正岡子規は病気について語っているのだ。それはメタファーではなく平叙である。ここを勘違いしてはならないと思う。そうすると子規の『病牀六尺』もまた意味を変えて我々に表れてくる。 そして最後の章で、なぜ自分は芥川がおもしろいと思えないのかも判明した。芥川は本書で「見通しを可能にするような作図上の配置にほかならない」とあるように、パースペクティブを与えるものでしかなかったからだ。それは新しい見方を常に提供する純文学の在り方でもある。なるほどなあ、と。 しかし、本書はとにかくおもしろかった。自分の時間の限られるなか、諸事情での中断中断を惜しんだ。とにかく読みたい気持ちが強かった。 今度は『世界史の構造』を読まねばと思う。 本書は人に胸を張って勧められる一冊であり、自分にとってかなりの影響を及ぼすと言っても過言でない。いやあ、おもしろかった。
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