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しがない
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川端康成『女であること』 「与えることは、たとえ相手が与え返さなくても、与えられることであった。愛することが愛されることであった。」
  • 2026年8月16日
    いきと風流
    いきと風流
    自分はもとから「日本の美意識」に興味があり、また放送大学の教材『西洋の美学・美術史』でオススメされていたため本書を手に取った。 概要としては「風流」という語の意味とその変遷を辿っていくモノである。 鎌倉前後までの「風流」は、なるほどとなった。 飛鳥前後は中国に倣って、詩や色が「風流」となった。そして平安前後ではそれが教養となり、詩であれば過去の名作を参照し書き換えて詠むことが「風流」とされた。 鎌倉前後では、それまで貴族たちの間で「風流」とされていた詩や色を台頭してきたバサラたちがまねぶことで、より派手で着飾ったものにしていった。それがカウンターカルチャーとなり貴族たちは詩や色、派手なものを嫌うようになっていく。それが茶や隠者のようなお淑やかなものこそ「風流」とされていく契機になった。 しかし、ここから、いきなり大衆(俗)に浸透した「風流」が語られるようになり、またその根拠が清と貧の対比といった筆者の憶測を出ないものでその論理にも飛躍を感じる。また話の矛先もいきなり隠元や芭蕉に飛んでいる。 その飛躍の仕方に自分はかなりの違和感を覚えた。 また自分としては、応仁の乱という一台センテンスがあってそこに終着したという方が無難だと思った。これは確かドナルド・キーン『日本の美意識』にあったと思う。 「いき」の章では、なるほどと思うことも多かったが、それは例えるにWikipediaの説明を見ている気分だった。歴史も浅く近代的な語だから仕方がないとは思うが。 「風流」や、日本人にとってのかっこよさとはなにか、を問い直す資料として読む分には良いのではと思う。
  • 2026年8月12日
    壁 (新潮文庫)
    壁 (新潮文庫)
    自分が読みたかったのは芥川賞受賞の第一部。 実存主義とシュールレアリスムが混ざったような作品だった。記号に自己は支えられているが、では自己の存在を支えているものはなんだろうか、というのがテーマなのだと思う。 100頁までは実存主義なのだが、それ以降はシュールレアリスムが混ざってきて話が混濁する。意味があるようで結局はあまり意味がないんじゃないかな。 ただなぜ途中から方向性をシュールレアリスムに切り替えたのが謎で、おそらく芥川賞狙いで文学の枠組みを拡張して見せようという試みなのだと思う。
  • 2026年8月10日
    Voix
    Voix
    圧巻。吉増剛造は天才だ。 詩の域を出てもはや芸術に等しい。それは装丁や本の作りからも雰囲気が出ている。 彼の思想の根底にアニミズムを感じるのだが、それが震災の傷跡が残る石巻を通して壮観に出ている。 例えば「巨魚ノ」のルビが「i,sa,,na」となっており、イサナは『クジラ』の古代語である。これは所詮ちっぽけな我々をあまりにも大きく、それも自然の権化であるクジラと比すると共に「イサナ」と読んでいた自然へそして古代へと連れ戻す試みなのだと思う。また句点の使い方が独特で「i,sa,,na」とすることにより一語ごとの音が読むにつれてより強く強調されていく。それに「素晴らしい」や「すごい」などという言葉を使うのではなく「oh!mademoiselle kinka!」という言葉を用いることで、『凄い』という感情をより実感的に感じることができる。加えて『金華山』という宮城の山の意味も込められている。それでいて一つの詩として読んで、全く不自然じゃないというのが凄い。その技巧は気を衒ったと言える次元ではなく極めて緻密である。 また詩の中に「ヒヨリ 日和」という記載があるのだが、自分たちは自然と『ひより びより』という音で読んでしまう。つまり自分たちは「ヒヨリ」と「日和」を違うものとして捉えている。著者の意図はわからないが、そういうレトリックによって我々の構造的な見方に問いかけてる。記号の本質をこの古代の呼び戻しにおいて揺るがされる。 この一冊はかなり素晴らしい作品で、詩の枠組みに囚われない、自分が読んだものの中で過去最高の部類に入ると思う。
  • 2026年8月9日
    イン・ザ・ミソスープ
    途中までは手に汗を握りつつも楽しめた。 村上龍の描く主人公はいつも主体的で自我が強いのだが、本作では客体を通しての主体的な自我が描かれていた。なのでいつもの村上龍作品より控えめで、文体もまた整っていた。 村上龍なので作中の節々に言いたいことを持ってくるのはいいのだが、作品全体として無理矢理なにかの意味を丸めようとしているのがこの作品を一気にダメにしている。本作は『羊たちの沈黙』に影響を受けたのだろうし、だからこそあえて丁寧な文体にすることでプラスティックなサイコホラーを演出したのだろうけれど、それを最後は社会風刺に丸めることで丁寧に作り上げた雰囲気を台無しにしている。第二部までは村上龍作品の中で一番おもしろいし名作だと思っていた。
  • 2026年8月5日
    自選 谷川俊太郎詩集
    最近は言葉に力が欲しいと思い詩集に没頭している。他の詩集も並行して読んでいるが、谷川の詩からはなんといってもまず第一に「物体」を感じる。物体あっての見えている世界というか。よく詩というもので万人が思い描くのは感情や観念、思想のようなものだと思う。しかし、谷川が実際に描いているのは物体ありきの感情や観念である。観念を思い描くにも、まずは実地に、目で見たり触ったりしないと観念にはたどり着かない。この物体としての前提のあることが、谷川の詩が私たちに馴染みやすい理由となっているのだろう。最初から観念で始まる詩であれば、そこに価値観や思考を共鳴させないと何を読んでいるかがわからなくなる。 シンプルではあるが、シンプルだからこそ良い。浅そうに見えて浅くない。なぜなら谷川の描くそれこそ手が実際に物に触れているということである。私たちは大人になるにつれて触れる"もの"を見なくなる、考えなくなる、慣れてしまう。谷川の詩はその心を童心に戻してくれる。まずは物体があるんだよ、と。だから良い。 ちなみにぼくがこの中で一番好きだった詩は『なんでもおまんこ』
  • 2026年8月4日
    新装版 コインロッカー・ベイビーズ
    村上龍が人気な理由がわかった気がする。 それは自己思想や哲学がないまたは自分の意見を持たない人が、村上龍の描く強い自我に魅入るからではないか。その憧憬は自我の暴力性を促すが、いざそれを矢面に出そうとするとたちまち億劫になってしまう。その行き場のない暴力性がまた村上龍を希求する。 そう自分が思ったのはキク(自我強)とハシ(自我弱)の対比により、改めて強調されて、「村上龍の作品は自我の強い人間が物語を展開している」と判ったからである。 この作品の感想としては、村上龍に見られる『いい加減さ』が無くて物足りなかった。というより村上龍にしては文章が丁寧過ぎた。あまり言語化はできていないが、対比によるキャラクターの描き方が丁寧すぎたのではないかとは思う。その解像度自体は高い、高いが、コインロッカーという閉鎖空間で生まれたキクが自我が強いのはどうなのだろうと思う。文章にも描かれているように「憎しみ」が彼の生きるエネルギーにはなっているのだろうが、それは自我の強さに繋がるかは自分としてはいささか懐疑的である。 世間的な評価はかなり高いだろうしおもしろいとも思うが、僕個人にとってはつまらなかった。それはWikipediaを眺めてるようなつまらなさだった。 最初に描いた通りだが、自我が弱い人達にとって、この作品はすこぶる刺激的で痛快で楽しめるのだと思う。 特に周りの評価が自己の存在になっている人々にとってはこの作品こそ暴力性を触発するダチュラである。 村上龍の作品を人に薦めるなら、『コインロッカーベイビーズ』こそ一番に胸を張って人に薦めることのできる作品だと思う。
  • 2026年7月20日
    愛の渇き
    愛の渇き
    精神の描き方は金閣寺より好き。 悦子は終始"女としての価値"を保とうとしている。それを軸に見れば、結末で三郎に嬲られた彼女の気持ちがいたくわかる。女の情緒不安定性は自己の女としての価値に左右される。それが女の儚さであり、三島の女に対する見方はここにあるのではないか。 多様な語彙で綴られており、それでいて文章に違和感が少ない。一貫して綺麗。ただやはり三島ということで文章は煩い。そこが三島のいやらしいところである。 川端を師と仰ぐだけある。真っ当な系譜だ。
  • 2026年7月19日
    貝に続く場所にて
    なんとか読み終えた、という感想。 読み始めは文章に馴染むまで時間がかかった。グミをかみながら文章に目を馴染ませた。 文体と構想の雰囲気は幻想的で、ずっとその空気を読まされていた。寺田という人物が出てきてからそれは顕著で、内容がますますわからなくなった。どういう終結を描いているのかさえよくわからない。多分相性がよくないのだと思う。ただ本作が芥川賞受賞は納得である。
  • 2026年7月17日
    吉増剛造詩集
    吉増剛造詩集
    詩というものをあまり読まないが、著者の名前を目にすることがあってついに手に取った。 衝撃だった。 なんだコレは。 読んでいるうちにテンポが駆け抜けていき同時にドラムのリズムが聞こえてきた。言葉の疾走感がすごい。意味がないようで意味があるような、シュルレアリスムともまた違った斬新さに脳を突かれた。それであって陶酔感やそれに伴う臭みも全くない。構造の無構造と言う他ない。詩を口に出して聞くとまた違った感動を得る。 著者の創作は詩の域を超えて芸術にまで手を伸ばしている。 この本は自分にとって人生に影響を及ぼす一冊になると思う。
  • 2026年7月13日
    愛と幻想のファシズム(下)
    読み終えた。まあまあおもしろかった。しかし、レビューを見ると、どうにも政治経済についての感想しかない。いや、この本はそういうものではないだろう、というのが嘆息と共にあった。確かに不況の政治経済に対するカタルシスという側面をこの本は担っている。しかし、たとえ題材が政治経済、革命だとしても、描かれているのは人間と構造ではないか。ぼくはこの下巻でシステムにからめとられるゼロと、システムに愚鈍なトウジという図を見出した。上巻でメンヘラを極めていたゼロはその素描を表に出さない、が、明らかに彼が鬱であることをフルーツは気づいている。そしてトウジも気づいているが、気付かないフリをしている。それは表向き平然と社会人として生きている人間が内面では食べ物の味を感じなくなり、何も楽しくなくなるのと同じである。ここで描かれているのは"システム化することが生きていく"ということである。 上巻ではゼロはメンヘラになり逃避していた、またトウジは狩猟をして遊んでいた。つまり、逃避と遊びこそシステム化から逃れる術だということだ。 逃避は現実を見ようとしないことだが、遊びは現実を鈍感化することだ。 本書の狩猟社の思惑は上巻から示されている(それは弱者の定義を曖昧にしていることからもわかる)ように、遊びの延長線上でしかない。だから最初から幻想でしかない。失敗に終わることは目に見えている。にも関わらず、本書を革命の成功物として評価しているのは読解力が欠けていると言わざる得ない。 キングサーモンやエルクという手に入らなかったものを幻想に追うからこそ幻想には価値があるのであって、そんなものは結局鮭と鹿なのだ。システム化するというのは、ただ鮭と鹿を見ることである。だから本書の締めくくりは革命の終わりを見せずに、鮭と鹿で終わる。 政治経済はあくまで味付けであり、メインディッシュは逃れられないシステムに抗う幻想なのだ。
  • 2026年7月11日
    愛と幻想のファシズム(上)
    「上」を読み終えた。 おもしろい。政治やその成り行き、展開についてはガバガバだと思うが、しかし、人間の描き方や文書はめちゃくちゃ上手。『限りなく透明に近いブルー』からは考えられないくらい文章が上手になっている。一人一人の人間の描写とその性格の再現が克明で、また「狩猟」や自然の描写などはよく勉強したのだなと感じる。そのコンテクストから滲み出る人間像が非常に緻密にできている。 村上特有のいい加減さというか、ざっくばらんな雰囲気、いわゆる村上龍節が出ていて最高だね。 「しにたい」と言うやつにはこの小説の最後の方を読ませてやりたい。生きることから逃れられないのだから逃げるな、と。村上龍の大雑把さが出ていて最高だ。「下」を早く読みたい。
  • 2026年7月2日
    この世の喜びよ
    この世の喜びよ
    二人称「あなた」で物語は展開される。 しかし、「あなた」と小説の世界へ『私』を喚起するのに、その文体が『私』を拒絶する。この小説に「あなた」と呼ばれるのが苦痛だった。十頁よんで限界が来た。これは小説ではなく詩文だろう。詩を小説の形態でやるべきではない。小説なら、短編には短編の鋭いリズムがあり、長編には長編の鈍いリズムがある。なので詩そのものを小説のリズムに置き換えるのは無理がある。やるのであれば小説に迎合させた詩でなければいけない。それを"詩"として読む読者には永遠に続く詩文が冗漫と感じて飽きが来る。 まずもって、この文章を"詩"として捉えてしまう人間には読めないだろう。 しかし、この文章に迎合できる、あるいは内容に融着できる人間にとっては「あなた」という喚起は心地よく居心地のいいものではないだろうか。 少なくとも自分には読めない。 賛否は別れるほどいい、それが純文学の正しい姿だと思う。 十頁読んで思い切りぶん投げた。
  • 2026年6月28日
    異常の構造
    うーん、そんな評価されるほどか?
  • 2026年6月28日
    感染症と文明
    感染症と文明
    おもろかった。読みやすい。1時間ほどで読めた。 前提として『銃・病原菌・鉄』を読んでいるなら、そのコラム程度でこの本を楽しむことができる。 内容としては「どのような感染症が歴史上の人類を襲い、また文明に影響を与えてきたのか」が描かれている。 個人的には『ペスト以降のヨーロッパ(66頁)』が新しい知見だった。ペストで大量死が起きたことで労働者に対する賃金が増える。賃金が増えることで購買力も上昇する。経済的な余裕ができることにより、内面的な思索は深まり、社会の思想の枠組みを変える原動力になる。また新しい価値観の創造へと繋がり、そうした条件が整う中で、やがてヨーロッパはイタリアを中心にルネサンスを迎え、文化的復興を遂げる。 なるほどな、と。ペストにより文化は停滞していたわけではなく、ペストによって価値観や文化も変貌していったと考えることができる。 それはつい数年前起こったコロナ感染症に対しても言えることだ。コロナが我々の文化に与えた影響をもっと真摯に考える必要があるのではないか、と。
  • 2026年6月27日
    現代社会の理論
    現代社会の理論というタイトル名は今から見れば「うーん」となる。なぜなら本書は30年前に描かれたものである。内容は主に資本主義社会に対しての〈消費/情報〉の話だった。 今から見れば当然といえば当然になったことが書いてある、としか言いようがない。当時はひとつの教科書としてすごかったんだろうな。第一章のフォードとモードの重要の話はおもしろかった。
  • 2026年6月27日
    日本近代文学の起源 原本
    柄谷をいつかは読まねばと数年前から思って、今回ようやくBOOKOFFで会うことができた。 そして本書を読んでみると、マジでめちゃくちゃおもしろい。なぜもっと前に読んでいなかったんだろうかと悔やむ。 自分の今まで読んできた新書の知識が、本書を読むにつれ星座のように結ばれていく。この本は自分にとってかなりの衝撃であった。自己哲学にも革新をもたらした。 本書はそこまで難しくない。第一章が難しいと感じても、第一章で言われた本旨は第二章第三章と具体例を共にして敷衍されていく。なので第一章でわからなくても決してめげずに読み続けてほしい。 もっとも第一章の文体には小林秀雄のような散文を感じた。小林秀雄を読んだことがあるからか、自分にはそこまで難しいとは思わなかった。逆に呼吸が合って読みやすいまであった。 そういって本書の解釈が間違っていてはどうにもならないが、例を挙げると柄谷が言いたいのはこうである。 Twitterで「ヤリラフィー」というのがある。最初は拡散されるだけで「ヤリラフィー」という名前も着いていなかった。ただ拡散される動画である。これが柄谷のいう『風景』だろう。しかしそれがMADのように弄られてミーム化する。ミーム化することによって「ヤリラフィー」という語が見られるようになる。そして彼らはミーム化したこの動画のことを「ヤリラフィー」と定着して呼ぶようになる。ここでミームと「ヤリラフィー」が語られるようになる。これが柄谷のいう『倒錯』である。 これが自分の本書の本質部分の解釈である。 また本書では、いくらか抑えて置かなければいけない前提知識というか常識がある。それは富国強兵によって言文一致がもたらされたことなのだが、富国強兵までの教育は『漢文』教育だ。つまり会話は平仮名を交えた口調であるのに対し、教育や何かの書き文句は全て『漢文』だった。それが富国強兵によって『平仮名』に統一されていく。それが「言文一致」ということだ。 柄谷はその知識が全員知っている前提のごとく、言文一致に重点を置きながら淡々と話を進めていく。『漢文→平仮名』の流れを知らないと、なぜ言文一致が文学において、そこまで重要なセンテンスだったのかよく分からないだろう。 そしてそれと共に西洋によって「内面/自己」というものがもたらされた。 言文一致の文章が出てきて内面が可視化されることにより、初めて「内面」というものが問題に挙げられる。つまり最初の方に言った「ヤリラフィー」の例である。 第二章の最後の方で鴎外は「自己というものがわからない」と言う。自己を問題化することで初めて自己となるものが描かれる。そこに「自己」を発見する。これが「倒錯」である。 それは「腹を切る」とそれまで当たり前だったものが、書くということで顕在化し、「腹を切る」という記号になって現れる。そこで初めて「腹を切る、とは?」と疑問になる。 西洋によって「内面」がもたらされたことにより「腹を切る」が顕在化されたのだ。 なるほど。そのように内容を理解してみると、今まで新書で読んだ知識が、どんどん繋がって理解が深まってくる。食わず嫌いせず岩波新書の緑を読んでおいてよかった。『日本の思想/丸山眞男』『近代の政治思想/福田歓一』なんかはその最たる例である。近代の新書は全てそこで繋がっているのだなとしみじみ思う。 特に一番の呼応を及ぼしたのは『善の研究/西田幾多郎』である。なぜ「純粋経験による実在」がそこまで彼にとって重要であったか、それは近代化以前に忘れられた「風景」だからだ。それが彼にとって真の日本人らしさであった。 なので本書を読もうとする人は、この前後に『善の研究』を読むことをオススメする。 しかし賞賛ばかりではない。もちろん批判もある。第三章の『病という意味』。『病牀六尺』と『不如帰』が「結核の倒錯」として語られるのだが、前者については倒錯という考えを改めるべきだと思う。二つの作品に共通する「結核」について、柄谷は「ウイルスや病気ではなく原罪のようなもの、神話化、メタファーである」と語る。それは我々にとっての「癌という病気」を語るのと同じだろう。最近ようやく治る病気として捉えられつつあるが、なにかの作品で癌が語られるときそれは畢竟「死」と結びついて考えられた。癌というそのものがメタファーとして機能した。 しかし、それは第三者から見た現象だからだろう。『不如帰』については倒錯と言っても差し支えないと思う。だが『病牀六尺』は話が違う。話しているのは結核の当事者である正岡子規だ。たとえ彼が結核でなくても、その症状について克明に描いていたのは想像にかたくない。当事者であるが故にメタファーや神話化にはなり得ない。自分はこの点を批判する。つまり、観念は風景になり倒錯であるが、実態として、概念は倒錯になりえない。それを倒錯と括れるのは第三者の特権である。正岡子規は病気について語っているのだ。それはメタファーではなく平叙である。ここを勘違いしてはならないと思う。そうすると子規の『病牀六尺』もまた意味を変えて我々に表れてくる。 そして最後の章で、なぜ自分は芥川がおもしろいと思えないのかも判明した。芥川は本書で「見通しを可能にするような作図上の配置にほかならない」とあるように、パースペクティブを与えるものでしかなかったからだ。それは新しい見方を常に提供する純文学の在り方でもある。なるほどなあ、と。 しかし、本書はとにかくおもしろかった。自分の時間の限られるなか、諸事情での中断中断を惜しんだ。とにかく読みたい気持ちが強かった。 今度は『世界史の構造』を読まねばと思う。 本書は人に胸を張って勧められる一冊であり、自分にとってかなりの影響を及ぼすと言っても過言でない。いやあ、おもしろかった。
  • 2026年6月22日
    文明の生態史観
    なるほど。こういう本か……。外山滋比古と同じ匂いを感じた。あちらよりはまだ新鮮味がありおもしろかった。というかこの著者『知的生産の技術』のなんだ、通りで……。 80頁くらいまではエッセイとして楽しく読めた。アイデアや視点、発想がおもしろい。また最後の章、宗教をウイルスと同じ視点で見るアイデアはなるほどなと思えた。 ただその間の約220頁は読むに耐えない。80頁を超えると第二章に入るのだが、第二章はエッセイよりも評論みが強くなる。評論みが強くなるくせに文体はエッセイの引き継ぎであり、要するに文章にかな文字が多いままなのである。エッセイにかな文字を多様するのは読みやすく分かりやすくていいのだが、評論にかな文字を多用されるのは逆に読みにくく冗漫に感じてしまう。そのせいで思考がスローになってしまう。 またこの本で繰り広げられているのは理論や理屈ではなく、机上論である。アイデアや発想は著者のフィールドワークから得られたものだが、そこから展開される理論はあくまで空想の範疇をでない。根拠が薄弱で、あまりにも内容が薄い。 「この本は日本の文化人類学のハシリである」と言われれば、まあそれには頷くしかないのだが、しかしこの時代の他の新書(岩波"新書"の青や緑)と比べると、本書はそこまで素晴らしいものとは思えない。 なるほど、小学生やそういうものに慣れていない人が読むとおもしろいと感じるのだろう。 第一章は一読の価値がある。
  • 2026年6月22日
    文章読本
    文章読本
    初めの章でこの本がどのような趣旨なのかを読んだが、あまり自分の求めている内容ではなかったため流し読みをした。それも例に挙げられた文章なんぞは飛ばして肝要なところだけを読み取った。 三島の趣旨は「文章をより深く味わうための手ほどき」であり、三島当人がぼくの読み方を知ったら即座に日本刀で首チョンパだろう。 内容は簡潔で、それはたとえば美術館などでよく見る音声解説を想像してもらえばいい。 この本では『文学の変遷』『文章の技巧』といったように、どのように文章が変化していったか、その技巧に長けている文章とはどのようなものか、例文と解説を交えやさしく丁寧な解説をしてくれる。 いわば文章のコンテクストを深めてくれる"視座"の本になっている。 『第八章実際の文章』だけは自分の求めていた内容だったので、まだまじめに読んだ。三島の推敲の仕方や文体の性格が知れて良かった。
  • 2026年6月21日
    午後の曳航
    午後の曳航
    三島の作品には必ずと言っていいほど三島の自我が現れている。この作品には三島の渇望する「男らしさ」への固執が色濃くある。女々しさを嫌悪し排除しようとするものの、母を独り占めしたいというマザコン思春期の主人公、そして彼は継父に威厳ある男(女は二の次とする昭和の男性的な強さ)としての理想を求める。首領の机上の理想論。全てのキャラクターが三島で構成されている。名は違えど姓は「三島」である。その分、三島の啓蒙的な自我が主張されておらず、また平易な文章で綴られているため読みやすい。プロットは彼らしく緻密に練ってある。そのわりに最後の終わり方は彼の師である川端のようにバッサリと幕を閉じる。「曳航」と「栄光」を掛け合わせているタイトルも彼らしくないと感じる。 彼の作品は基本的に精子臭いので好きではないのだが、この作品は非常におもしろかった。 ただ自分は彼の構成の武装による完成具合や、物語や人格の矛盾のなさを貫く完璧具合がなんとも不自然に思えて、改めて苦手なのだなと思った。だからこそ文学的評価や根強い世間的評価が確固として根付いているのは理解できるのだが。
  • 2026年6月19日
    なぜ世界は存在しないのか
    なぜ世界は存在しないのか
    こんなもん読んでいられるか。 最初の30頁程度で話は終わっている。なんならAmazonレビューで話は完結している。 つまらなくなって100頁くらいからは流し読み、200頁くらいまでは読んで飽きてしまった。その後はおもしろくなっただろうか。 「なぜ世界は存在しないのか」の著者が言いたいことはフッサールやハイデガーの逆説でしかなかった。 それ以外はほかの理論に対する反論をしている。 これがまた冗長。哲学書につまらない例や閑話休題がいるのだろうか。哲学書らしくもっと濃くできただろうに。難しいとかではなく単純におもしろくないから読みにくい。哲学書として難しくないから読みにくい。一般向けでは。
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