

しがない
@ooe
川端康成『女であること』
「与えることは、たとえ相手が与え返さなくても、与えられることであった。愛することが愛されることであった。」
- 2026年7月11日
読み終わった「上」を読み終えた。 おもしろい。政治やその成り行き、展開についてはガバガバだと思うが、しかし、人間の描き方や文書はめちゃくちゃ上手。『限りなく透明に近いブルー』からは考えられないくらい文章が上手になっている。一人一人の人間の描写とその性格の再現が克明で、また「狩猟」や自然の描写などはよく勉強したのだなと感じる。そのコンテクストから滲み出る人間像が非常に緻密にできている。 村上特有のいい加減さというか、ざっくばらんな雰囲気、いわゆる村上龍節が出ていて最高だね。 「しにたい」と言うやつにはこの小説の最後の方を読ませてやりたい。生きることから逃れられないのだから逃げるな、と。村上龍の大雑把さが出ていて最高だ。「下」を早く読みたい。 - 2026年7月2日
この世の喜びよ井戸川射子じゅうぶん読んだ二人称「あなた」で物語は展開される。 しかし、「あなた」と小説の世界へ『私』を喚起するのに、その文体が『私』を拒絶する。この小説に「あなた」と呼ばれるのが苦痛だった。十頁よんで限界が来た。これは小説ではなく詩文だろう。詩を小説の形態でやるべきではない。小説なら、短編には短編の鋭いリズムがあり、長編には長編の鈍いリズムがある。なので詩そのものを小説のリズムに置き換えるのは無理がある。やるのであれば小説に迎合させた詩でなければいけない。それを"詩"として読む読者には永遠に続く詩文が冗漫と感じて飽きが来る。 まずもって、この文章を"詩"として捉えてしまう人間には読めないだろう。 しかし、この文章に迎合できる、あるいは内容に融着できる人間にとっては「あなた」という喚起は心地よく居心地のいいものではないだろうか。 少なくとも自分には読めない。 賛否は別れるほどいい、それが純文学の正しい姿だと思う。 十頁読んで思い切りぶん投げた。 - 2026年6月28日
- 2026年6月28日
感染症と文明山本太郎読み終わったおもろかった。読みやすい。1時間ほどで読めた。 前提として『銃・病原菌・鉄』を読んでいるなら、そのコラム程度でこの本を楽しむことができる。 内容としては「どのような感染症が歴史上の人類を襲い、また文明に影響を与えてきたのか」が描かれている。 個人的には『ペスト以降のヨーロッパ(66頁)』が新しい知見だった。ペストで大量死が起きたことで労働者に対する賃金が増える。賃金が増えることで購買力も上昇する。経済的な余裕ができることにより、内面的な思索は深まり、社会の思想の枠組みを変える原動力になる。また新しい価値観の創造へと繋がり、そうした条件が整う中で、やがてヨーロッパはイタリアを中心にルネサンスを迎え、文化的復興を遂げる。 なるほどな、と。ペストにより文化は停滞していたわけではなく、ペストによって価値観や文化も変貌していったと考えることができる。 それはつい数年前起こったコロナ感染症に対しても言えることだ。コロナが我々の文化に与えた影響をもっと真摯に考える必要があるのではないか、と。 - 2026年6月27日
現代社会の理論見田宗介読み終わった現代社会の理論というタイトル名は今から見れば「うーん」となる。なぜなら本書は30年前に描かれたものである。内容は主に資本主義社会に対しての〈消費/情報〉の話だった。 今から見れば当然といえば当然になったことが書いてある、としか言いようがない。当時はひとつの教科書としてすごかったんだろうな。第一章のフォードとモードの重要の話はおもしろかった。 - 2026年6月27日
日本近代文学の起源 原本柄谷行人読み終わった柄谷をいつかは読まねばと数年前から思って、今回ようやくBOOKOFFで会うことができた。 そして本書を読んでみると、マジでめちゃくちゃおもしろい。なぜもっと前に読んでいなかったんだろうかと悔やむ。 自分の今まで読んできた新書の知識が、本書を読むにつれ星座のように結ばれていく。この本は自分にとってかなりの衝撃であった。自己哲学にも革新をもたらした。 本書はそこまで難しくない。第一章が難しいと感じても、第一章で言われた本旨は第二章第三章と具体例を共にして敷衍されていく。なので第一章でわからなくても決してめげずに読み続けてほしい。 もっとも第一章の文体には小林秀雄のような散文を感じた。小林秀雄を読んだことがあるからか、自分にはそこまで難しいとは思わなかった。逆に呼吸が合って読みやすいまであった。 そういって本書の解釈が間違っていてはどうにもならないが、例を挙げると柄谷が言いたいのはこうである。 Twitterで「ヤリラフィー」というのがある。最初は拡散されるだけで「ヤリラフィー」という名前も着いていなかった。ただ拡散される動画である。これが柄谷のいう『風景』だろう。しかしそれがMADのように弄られてミーム化する。ミーム化することによって「ヤリラフィー」という語が見られるようになる。そして彼らはミーム化したこの動画のことを「ヤリラフィー」と定着して呼ぶようになる。ここでミームと「ヤリラフィー」が語られるようになる。これが柄谷のいう『倒錯』である。 これが自分の本書の本質部分の解釈である。 また本書では、いくらか抑えて置かなければいけない前提知識というか常識がある。それは富国強兵によって言文一致がもたらされたことなのだが、富国強兵までの教育は『漢文』教育だ。つまり会話は平仮名を交えた口調であるのに対し、教育や何かの書き文句は全て『漢文』だった。それが富国強兵によって『平仮名』に統一されていく。それが「言文一致」ということだ。 柄谷はその知識が全員知っている前提のごとく、言文一致に重点を置きながら淡々と話を進めていく。『漢文→平仮名』の流れを知らないと、なぜ言文一致が文学において、そこまで重要なセンテンスだったのかよく分からないだろう。 そしてそれと共に西洋によって「内面/自己」というものがもたらされた。 言文一致の文章が出てきて内面が可視化されることにより、初めて「内面」というものが問題に挙げられる。つまり最初の方に言った「ヤリラフィー」の例である。 第二章の最後の方で鴎外は「自己というものがわからない」と言う。自己を問題化することで初めて自己となるものが描かれる。そこに「自己」を発見する。これが「倒錯」である。 それは「腹を切る」とそれまで当たり前だったものが、書くということで顕在化し、「腹を切る」という記号になって現れる。そこで初めて「腹を切る、とは?」と疑問になる。 西洋によって「内面」がもたらされたことにより「腹を切る」が顕在化されたのだ。 なるほど。そのように内容を理解してみると、今まで新書で読んだ知識が、どんどん繋がって理解が深まってくる。食わず嫌いせず岩波新書の緑を読んでおいてよかった。『日本の思想/丸山眞男』『近代の政治思想/福田歓一』なんかはその最たる例である。近代の新書は全てそこで繋がっているのだなとしみじみ思う。 特に一番の呼応を及ぼしたのは『善の研究/西田幾多郎』である。なぜ「純粋経験による実在」がそこまで彼にとって重要であったか、それは近代化以前に忘れられた「風景」だからだ。それが彼にとって真の日本人らしさであった。 なので本書を読もうとする人は、この前後に『善の研究』を読むことをオススメする。 しかし賞賛ばかりではない。もちろん批判もある。第三章の『病という意味』。『病牀六尺』と『不如帰』が「結核の倒錯」として語られるのだが、前者については倒錯という考えを改めるべきだと思う。二つの作品に共通する「結核」について、柄谷は「ウイルスや病気ではなく原罪のようなもの、神話化、メタファーである」と語る。それは我々にとっての「癌という病気」を語るのと同じだろう。最近ようやく治る病気として捉えられつつあるが、なにかの作品で癌が語られるときそれは畢竟「死」と結びついて考えられた。癌というそのものがメタファーとして機能した。 しかし、それは第三者から見た現象だからだろう。『不如帰』については倒錯と言っても差し支えないと思う。だが『病牀六尺』は話が違う。話しているのは結核の当事者である正岡子規だ。たとえ彼が結核でなくても、その症状について克明に描いていたのは想像にかたくない。当事者であるが故にメタファーや神話化にはなり得ない。自分はこの点を批判する。つまり、観念は風景になり倒錯であるが、実態として、概念は倒錯になりえない。それを倒錯と括れるのは第三者の特権である。正岡子規は病気について語っているのだ。それはメタファーではなく平叙である。ここを勘違いしてはならないと思う。そうすると子規の『病牀六尺』もまた意味を変えて我々に表れてくる。 そして最後の章で、なぜ自分は芥川がおもしろいと思えないのかも判明した。芥川は本書で「見通しを可能にするような作図上の配置にほかならない」とあるように、パースペクティブを与えるものでしかなかったからだ。それは新しい見方を常に提供する純文学の在り方でもある。なるほどなあ、と。 しかし、本書はとにかくおもしろかった。自分の時間の限られるなか、諸事情での中断中断を惜しんだ。とにかく読みたい気持ちが強かった。 今度は『世界史の構造』を読まねばと思う。 本書は人に胸を張って勧められる一冊であり、自分にとってかなりの影響を及ぼすと言っても過言でない。いやあ、おもしろかった。 - 2026年6月22日
文明の生態史観梅棹忠夫読み終わったなるほど。こういう本か……。外山滋比古と同じ匂いを感じた。あちらよりはまだ新鮮味がありおもしろかった。というかこの著者『知的生産の技術』のなんだ、通りで……。 80頁くらいまではエッセイとして楽しく読めた。アイデアや視点、発想がおもしろい。また最後の章、宗教をウイルスと同じ視点で見るアイデアはなるほどなと思えた。 ただその間の約220頁は読むに耐えない。80頁を超えると第二章に入るのだが、第二章はエッセイよりも評論みが強くなる。評論みが強くなるくせに文体はエッセイの引き継ぎであり、要するに文章にかな文字が多いままなのである。エッセイにかな文字を多様するのは読みやすく分かりやすくていいのだが、評論にかな文字を多用されるのは逆に読みにくく冗漫に感じてしまう。そのせいで思考がスローになってしまう。 またこの本で繰り広げられているのは理論や理屈ではなく、机上論である。アイデアや発想は著者のフィールドワークから得られたものだが、そこから展開される理論はあくまで空想の範疇をでない。根拠が薄弱で、あまりにも内容が薄い。 「この本は日本の文化人類学のハシリである」と言われれば、まあそれには頷くしかないのだが、しかしこの時代の他の新書(岩波"新書"の青や緑)と比べると、本書はそこまで素晴らしいものとは思えない。 なるほど、小学生やそういうものに慣れていない人が読むとおもしろいと感じるのだろう。 第一章は一読の価値がある。 - 2026年6月22日
文章読本三島由紀夫読み終わった初めの章でこの本がどのような趣旨なのかを読んだが、あまり自分の求めている内容ではなかったため流し読みをした。それも例に挙げられた文章なんぞは飛ばして肝要なところだけを読み取った。 三島の趣旨は「文章をより深く味わうための手ほどき」であり、三島当人がぼくの読み方を知ったら即座に日本刀で首チョンパだろう。 内容は簡潔で、それはたとえば美術館などでよく見る音声解説を想像してもらえばいい。 この本では『文学の変遷』『文章の技巧』といったように、どのように文章が変化していったか、その技巧に長けている文章とはどのようなものか、例文と解説を交えやさしく丁寧な解説をしてくれる。 いわば文章のコンテクストを深めてくれる"視座"の本になっている。 『第八章実際の文章』だけは自分の求めていた内容だったので、まだまじめに読んだ。三島の推敲の仕方や文体の性格が知れて良かった。 - 2026年6月21日
午後の曳航三島由紀夫読み終わった三島の作品には必ずと言っていいほど三島の自我が現れている。この作品には三島の渇望する「男らしさ」への固執が色濃くある。女々しさを嫌悪し排除しようとするものの、母を独り占めしたいというマザコン思春期の主人公、そして彼は継父に威厳ある男(女は二の次とする昭和の男性的な強さ)としての理想を求める。首領の机上の理想論。全てのキャラクターが三島で構成されている。名は違えど姓は「三島」である。その分、三島の啓蒙的な自我が主張されておらず、また平易な文章で綴られているため読みやすい。プロットは彼らしく緻密に練ってある。そのわりに最後の終わり方は彼の師である川端のようにバッサリと幕を閉じる。「曳航」と「栄光」を掛け合わせているタイトルも彼らしくないと感じる。 彼の作品は基本的に精子臭いので好きではないのだが、この作品は非常におもしろかった。 ただ自分は彼の構成の武装による完成具合や、物語や人格の矛盾のなさを貫く完璧具合がなんとも不自然に思えて、改めて苦手なのだなと思った。だからこそ文学的評価や根強い世間的評価が確固として根付いているのは理解できるのだが。 - 2026年6月19日
なぜ世界は存在しないのかマルクス・ガブリエル,清水一浩じゅうぶん読んだこんなもん読んでいられるか。 最初の30頁程度で話は終わっている。なんならAmazonレビューで話は完結している。 つまらなくなって100頁くらいからは流し読み、200頁くらいまでは読んで飽きてしまった。その後はおもしろくなっただろうか。 「なぜ世界は存在しないのか」の著者が言いたいことはフッサールやハイデガーの逆説でしかなかった。 それ以外はほかの理論に対する反論をしている。 これがまた冗長。哲学書につまらない例や閑話休題がいるのだろうか。哲学書らしくもっと濃くできただろうに。難しいとかではなく単純におもしろくないから読みにくい。哲学書として難しくないから読みにくい。一般向けでは。 - 2026年6月7日
読み終わった川端は主に中編と長編を読んできたが、短編も実に名手だ。むしろ短編のほうが情報の集結がなく余白の美しさを感じられる。 『花のワルツ』は会話文がなんとも美しかった。 旧字体で古い印刷版のせいか、空白も数字もなく場面転換が急で、話として分かりづらいところがいくらかあった。 日本でもてはやされていた南條は海外の体躯や技術を目の当たりにして自信をなくしてしまったのだろう。ついには杖をひくびっことなってしまった。しかし、彼は星枝の踊りをみて再び生命の炎を灯す。彼には舞姫としての彼女が魅力的だったのだろうか、否、魔性で不思議な彼女に惹かれていたのだろう。 結末により彼は竹内の代わりに責任を取らなければいけない。 個人的には『日雀』がすきだった。なんとも余韻の残る話だ。 『朝雲』は所々で評価されている作品だがあまりささらなかった。百合の片想いというよりは大人への憧れであろう。それを大人が子供をいなしている。思春期の話。 かなりおもしろかったが、なぜ増刷がされていないのかはよくわからない。中編という微妙なページ数の問題なのだろうか。 - 2026年5月29日
車輪の下ヘルマン・ヘッセ,高橋健二読み終わった結局、主人公は幸福だったのか不幸だったのか、よくわからない。 読了して「えぇ……」としか思わなかった。 読んでいて、もちろん刺さったよ。 ただこの本以外にも思うが、『死』を救いにしたとして、なぜ体験も認知できない『死』を救済の最高峰として考えるのか、ぼくにはよくわからない。 だから漫然と死ぬまでの自伝を読んでいたという感覚だった。 多感な彼や、その環境が彼を死に追いやったとして、何を責めればいいのか、誰を責めればいいのか、ぼくにはわからなかった。みんな最善を求めてコトを進めようとしておる。原因があったとしても、その意味では誰も悪くない。 最初から救われない物語なのだと思う。彼に気の合う友達がもっといれば救われていたのだろうな。 - 2026年5月27日
他人の顔安部公房読み終わったおもしろさを形容するなら、三島の金閣寺と同等だろう。どちらも文章が主人公の精神性で覆われている秀逸さがある。ただぼくは安部のほうがすきだ。 人間の泥臭い自家撞着が染みていて、それがこの『他人の顔』の文章表現に表れている。それゆえ中盤は冗長になるのだが、これは主人公の精神性だと理解することができる。 顔の傷以降、彼は神経症になったのだろう。そうして読み進めていくと合点がいく。彼は自分が信じられなくなった。それはつまり、自分の世界の見方に対しても自信がなくなるということだ。これが世界への猜疑心になる。 彼は世界に抵抗するため仮面に固執するのだが、妻は呑気にテレビを見ている。彼を卑小する様子もない。妻は彼と顔だけで接しているわけではなく、彼の存在、そして空気を愛している、彼との日常を愛しているのだ。 最初から彼の勘違いであり、自家撞着の物語である。 妻が仮面の彼と性行為をするのも、彼女が彼のすべてを愛しているからだろう。 というか仮面を被って低い声を出したくらいでバレないと思うのが、そもそもお門違いである。特有のしぐさや空気感は拭いきれない。それを失念するくらい彼は顔に固執してしまった。自信のなさから全ての人間が顔で生きてると勘違いしてしまった。 そんな人間の哀れな自家撞着である。 最後、物語はどうなったのだろうか。 僕が考える最後は、やはり足音は妻であり、妻はいつも通り家に帰ってきたのだろう。彼女は徹頭徹尾日常を生きている。 そして彼は顔ではなく足音で妻と判断する。彼女にすべてを愛されている彼は仮面を殺すのだ。 物語を普通に読むとバッドエンドは想像に難くない。しかし僕は、それでも救いに賭けたいと思う。それは彼の実存が妻に依存しているからでもある。 蛭の顔は最初から彼の仮面であったのだ。 それにて自己超克の物語としよう。 - 2026年5月25日
蛇にピアス金原ひとみ読み終わった始めから終いまで主観的な小説だ。 要するに情景がまったく描かれない。だからむこうみずな若々しさを感じる。それは文章として下手くそといえばそれまでだが、だからこそより若さが燦然としているのではないか。文章が少しでも上手くなると、歳を少しでもとると、このような小説は書けないだろう。その意味で村上龍を彷彿とさせる。またシナリオからもどことなく彼の面影を感じる。 それはヘラった女の小説、なよなよした村上龍とでも言おうか。 ストーリーは起承転結がハッキリしていて読みやすかったし、単純ではあるのだがおもしろかった。この単純さは多くの読者に読まれ続ける所以だと思う。 ぼくは好きではない。 - 2026年5月25日
美しさと哀しみと川端康成読み終わった女の勘はするどい、そして女はこわい。 読み終わるときに、作品の美しさと抒情のなりゆきに感服して涙を溜めてしまった。 川端といえばセリフ回しを多用する、段落の多い、短絡的な文体が印象的で、それが彼特有のはかなさをまとわせるのだが、この作品は後半になるまでそれを封印している。 そして前半はまったく川端らしくなくて、主客の状態描写から始まり、段落ごとの説明もヘビのように長い。それは彼の『名人』で見られた文の体系ではあるのだが、決してその作品のようにルポの冗漫さには陥らず、そこには美しい文章と表現が紡がれている。 また文章だけではなく、そのシナリオも川端作品のなかでは逸品ではないだろうか。それは文章を通して、晩年の彼自身にどこかぼんやりした影が見え、またその影がキャラクターに影響しているからこそ、陰鬱なはかなさが話の中の人間の関係性にも漂っている。それがストーリーに深みを持たせている。 また描写がエッロイ。いやらしいとかよりもエッロイ。本を離れて60歳の晩年のじじいが書いてると思うと気持ち悪いが、描写は決して気持ち悪いとはならず、ただただエッロイ。そんな審美眼でまだまだ女の美しさが新たに描けたのかと、ただただ表現力に驚嘆するばかりであった。 いままで川端の文庫本はほぼ全てを読んだつもりだが、個人的には最高傑作である雪国についで二番目に好きだ。いや、読み終わった当初は一番であった。それほどに自分の中では衝撃だった。 この作品はかなり過小評価されている。過小評価されすぎていると思う。 新潮ではなく中公から出版されたというのはあるだろうが、なんとも納得がいかない。それほどまでにこの作品は美しく、そして哀しい。 - 2026年5月23日
万延元年のフットボール加藤典洋,大江健三郎読み終わった「最初から最後まで一体何を見せられているんだ?」 顔を真っ赤に塗って肛門に胡瓜を入れて縊死した友人だの、チョウソカベだの、スーパーマーケットの天皇だの。この作品はそのシュールさと、大江の真剣さを楽しむ作品だと思う。 読んでいて立川流の落語を聞いている感覚に近い。 内容と評価は如何ともし難い。 弟の兄への憧れと認められたい感情、アンビバレントな態度、そして贖罪なのだろう。兄が大人すぎるがゆえに、結局弟は見離されてしまった。馬鹿らしいとでも言うような冷笑的な目が全てを突き放している。しかしそれが現実なのだと思う。現実に生きれば夢はすぐ覚めてしまう。そんな構造がこの作品にはあった。 そしてこの作品を評価している人間に対してはなんとも首を傾げたくなる。 読んだ後には「結局なにがいいたかったんだ」と言わざる得ない。だから一考した上でレビューを見るのだが、どうにもそのレビュアーたちは具体的に何がよかったかを言おうとしない。 その韜晦的で手放しな評価は、ただ読み終わった自分に自惚れているだけではないか。 本当にいい純文学は評価がくっきりわかれるものだと思う。大江天皇に陶酔し屈服する彼らを許すな。 - 2026年5月19日
卍(まんじ)谷崎潤一郎読み終わった天才。 最終ページの読点に目をあてたあと、茫然自失と、この小説自体に感服してしまった。気づくと目に涙が浮かんでいた。なにも感動するような話でも、よい結末だったわけでもない。ただただこの小説がすごすぎて涙が出てきた。なぜここまで感服してしまったかは、後日自分の感情と思考を冷静に分析しなければいけないのだが、今はまったく想像がつかない。ハンマーでうしろから頭を殴られたかのような衝撃だ。 自分が今まで読んできた中で、おもしろさでいえば一番おもしろいと言える。またこれは自分の人生においてかなりの影響を及ぼし続けるとおもう。自分にはこの小説以上におもしろいものがあるとは思えない。小説史上の最高傑作だと思う。自分には到底こんなものは書けない。天才がすぎる。 - 2026年5月17日
- 2026年5月17日
女であること川端康成読み終わった淡々と話が進んでいく。川端康成に、ここまでの大長編は向かないのではなかろうか。情緒と趣を点てるなら200ページくらいがちょうどいい。 女というものは男がいて初めてなりたつものである。それは一貫している。そしてまた彼がかく女性像は散りゆく花のように脆い。 この小説は女というパターンを書いた小説だと思う。いつもの、脆さや儚さに焦点を当てたものではなく、女というそのものを描こうとした、そういう気概を感じる。 だから自分は、途中から芸術的気品を求めることを諦めた。それはテーマ性に欠けているからでもある。彼はただ女のパターンを示した。 - 2026年5月11日
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