糖
@inwatermelon_
2026年6月27日
「待つ」ということ
鷲田清一
読み終わった
「待つ」ことは得意な方だと思っていた。
多少の隙間時間があっても、音楽やら読書やら独りでいくらでも時間を潰せるし、仕事やプライベートで先の予定を立てて準備することは苦ではない。ハンバーガーならマクドナルドよりモスバーガーが好きだ(昨日もエビとアボカドのを食べた)。
そうした「待つ」は、「期待」だという。
経験則や常識の範囲において、現在と強く結びついた未来。ほぼ今といえる未来。
一方で、「待機」するということ。
限りなく不確かな未来を待つ行為。いつ答えが出るのか、どんな答えが出るのか、誰にも分からない。次第に、待っていたのか、待たされていたのか、何のために待っているのか、今この行為に何の意味があるのか⋯⋯全てが虚空に吸い込まれていくような「待つ」。
「待機」することは、わたしは格別に苦手かもしれない。
例えば、仕事で部下に相談されたとき、部下の考えを理解した上で、それを常に尊重できていただろうか? わたしの頭の抽斗から、使い古したスパナをはいと渡しているだけでは無かったか?
例えば、悩んでいる友人に対して、なんとか早く立ち直ってほしいと、無理に前向きなことばを掛けていなかっただろうか? 次の季節に咲く花のような心に、早く咲けと水を遣り過ぎていなかったか?
「待機」と「期待」はちがう。とりわけ、ケアの世界では「待機」することに大きな価値がある。
誰を、何を待っているかを手放して、ただこの先に起こるであろうことを受け入れる体制を取ること。「待つ」を待つこと。
もう20年も前の本だけれど、今の時代はより「待つ」ことが難しくなっていると思う。こんな時代だからこそ、ここぞというとき、まず「待機」することを考えてゆきたい。
あとがきの書き出しの文章に救われるような思いがした。引用させていただき、心にしっかりと留めたい。
待つということにはどこか、年輪を重ねてようやく、といったところがありそうだ。痛い想いをいっぱいして、どうすることもできなくて、時間が経つのをじっと息を殺して待って、じぶんを空白にしてただ待って、そしてようやくそれをときには忘れることもできるようになって、はじめて、時が解決してくれたと言いうるようなことも起こって、でもやはり思っていたようにはならなくて、それであらためて、独りではどうにもならないことと思い定めて、何かにとはなく祈りながら何事にも期待をかけないようにする、そんな情けない癖もしっかりついて、でもじっと見るともなく見つづけることだけは放棄しないで、そのうちじっと見ているだけでもじぶんが哀れになって、瞼を伏せて、やがてここにいるということじたいが苦痛になって、それでもじぶんの存在を消すことはできないで……。そんな想いを澱のようにため込むなかで、ひとはようやく待つことなく待つという姿勢を身につけるのかもしれない。年輪とはそういうことかとおもう。
