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糖
@inwatermelon_
月に2冊は読みたいなと思って生きています。 Readsはほぼ記録用として使っているため、交流してくださる方はlit.linkからXなどにお越しくだると嬉しいです。
  • 2026年8月18日
    ジャクソンひとり
    ミックスルーツ、LGBTQ+、ドラッグ、暴力、性的暴行、リベンジポルノ、復讐⋯⋯ マイノリティの青年たちがこの世の理不尽に対して反抗する。 目には目を。タブーにはタブーを。 タブーって何だったっけ。 それを決めたのはだれ? ストーリーは全然違うのだけれど、金城一紀「GO」を読んだときの感覚を思い出した。 あの本も“純ジャパ”ではない若者の葛藤や反抗を描いている。扱うテーマは決して軽くないのに、しなやかで飄々と生き、ときにヘラヘラと笑ってみせる主人公たちの姿が重なって見える。 主人公たちが現在の境遇に至った過程については、あまり明確に書かれていない。だから、読みようによっては、彼らは生来のワルで、痛い目に遭うのは自己責任だと捉える向きもあるかもしれない。社会的弱者は、弱いからこそ社会的弱者であって、彼らの場合はそうでないと。 けれど、描かれなくとも、彼らがマジョリティとは異なるふうに生まれ、経験をしてきたことを想像することができる。それは必ずしも彼らの責任ではない、少なからずマジョリティ側の責任でもある。 何事においても、大切なのは想像することだと思う。 拒絶のための想像ではなく、寛容、受容の窓を開くための想像。 全てを許せ、受け入れろ、ということではない。窓を開けておくこと。簡単に白黒はっきりさせないということ。 それは、大抵しんどい。宙ぶらりんの状態。でも、想像することで出会える、救われる世界が少なからずあるのではないかな。
  • 2026年8月11日
    注文の多い料理店
    「注文の多い料理店」は、宮沢賢治による童話のタイトルであり、同作を含む9篇の作品を収めた童話集の名称でもある。 つぎに引用するのは、童話集の冒頭に掲げられた「序」。わたしのとても好きな文章。 ----------  わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。  またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。  わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。  これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。  ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。  ですから、これらのなかには、あなたのためになるところもあるでしょうし、ただそれっきりのところもあるでしょうが、わたくしには、そのみわけがよくつきません。なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。  けれども、わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。 ---------- なんというか、大自然からめいいっぱい取り込んで蓄積された創作意欲が、体内でぐつぐつと煮えたぎり、作品として形になるやいなやの状態で勢いよくあふれだすような、危険性すら秘める圧倒的なエネルギー、切実さをひしひしと感じる。 これぞアーティストだよな、と思う。 なんで今更「注文の多い料理店」を読んだのか、というと、キューライス特装版を買ったからです。最高。
    注文の多い料理店
  • 2026年8月9日
    マツタケ
    マツタケ
    先日読んだ「食卓にきた犬」の中で、名著として紹介されていた本。インパクト特大なタイトルがどうしても気になったので読んでみた。 邦訳副題は「不確定な時代を生きる術」。 人文社会科学、経済学、環境学、民俗学、あらゆる学問をマツタケという存在を通して紐解いていく、冗談のようで至って真面目な、でもどこかユーモアや示唆に満ちた不思議な本だった。 日本人がこぞってありがたがるマツタケの発生・収穫は、予見、規則、管理、最適化⋯そんな言葉とは真逆のところにある。 混沌とした広大な里山において、ちょっとした風景の揺らぎや動物たちの残したわずかな痕跡などを手がかりに、熟練のハンターたちがそれぞれの経験や能力を頼りにして一つ一つを丁寧に見つけ出していく。 そのような、資本主義経済とは遠く離れた世界にあるように見えて、その商品的価値は資本主義から逃れることができないアンビバレントな存在がマツタケ。 広島に原子爆弾が投下された後、荒廃した大地に最初に生まれた命は、なんとマツタケだったという。 人類がお互いを憎み、禁じ手ともいえる最終兵器で滅ぼし合った結末に、新たなスタートを切るのが、人類の大好きなキノコであるというのはなんとも皮肉めいていると思った。 マツタケは、人間だけではなく、シカやクマ、森の多くの生き物たちにとっても、目の色を変えて探したくなるような魅力的な芳香がするらしい。 全てがリセットされ、カオスに包まれた野生の世界で、キノコを求めてさまよう動物たちの暮らしを想像する。そこに人間はひとりもいない。 人類が滅ぶことは地球史の終わりでもなんでもなく、無限に続くストーリーにおけるちょっとした閑話休題に過ぎないのかもしれないと考えると、無責任にも我々の肩の荷が少し軽くなるような気さえした。 ⋯なんて、現実逃避すらしたくなるような2026年の8月6日、そして9日。 ここまで混沌を無理やり秩序立ててはびこった我々、せっかくだから末永く、誰もが平和にはびこり続けてはいけないものかな。
  • 2026年7月19日
    神話と意味 新装版
    神話と意味 新装版
    かしこい人が、難しいことを、誰にでも分かるような簡単なことばで話す様は、本当に格好良くて憧れる。 これが真のコミュニケーション力だよな、と思う。 構造主義の祖、レヴィ・ストロースがイギリスのラジオ番組にて聴取者からの質問に答える形で語った講話の編集版。 わたしのようなポンコツでもするすると読めてしまった。 「神話」を科学の進歩の過程で生まれた迷信、未開の象徴として見下すのではなく、アプローチは異なるけれど同様に世界を理解しようとした思考のすがたとして尊重する。 神話と科学、神話と歴史、神話と音楽、⋯様々な概念との比較を通して、それに覆いかぶさった埃を取り払い、輝きを取り戻そうとしてゆく。 「比較」というのは、よく切れるナイフを操るようなものだと思う。 その切れ味、恐ろしさを理解せずに振り回してしまうと、対象を無惨に傷つけ壊してしまう。◯◯は△△よりも弱い・古い・ダサい・劣っている⋯⋯ 深呼吸して、ドーパミンやアドレナリンの暴走をやり過ごし、慎重に、丁寧に、色んな角度から刃を滑らせていく。被われていた殻や皮がきれいに剥ぎ取られ、知らなかったすがたが、隠し持っていた美しさが発見される。 好きなものをもっと好きになったり、何とも思わなかったものや苦手だったものが好きになったりする。 どうしてこれはこんな表現なのか、何で評価されているのか、これとこれのちがいは何なのだろうか。 ファーストインプレッションだけで決めつけない、第二印象、第三印象⋯⋯、記憶をたどって伏線回収するように、思いがけず啓示が降りてくるようにして、AとBとの間にかけがえのないつながりを探す。そのつながりの先に、更なるCやDとの出会いが待っている。 「比較」を、自分の立ち位置を守るために使うのではなく、自分の世界を広げていくために使うということ。 レヴィ・ストロースが言っているのはそんな俗っぽいことではないのだろうけれど、世界への、他者へのやさしい視線をもつことが、ひいては自分の生活を豊かにするんだろうなと再認識した。
  • 2026年7月12日
    食卓にきた犬
    食卓にきた犬
    宇宙のエネルギーは膨張し、拡散し、やがて死に向かう。 そんな宇宙の一生とは比べものにもならない、あったのかなかったのかも分からないような瞬間のうちに、わたしたちの命はやがて尽きていく。 塵のようなその瞬間を、せいいっぱいに引き伸ばし、慈しんでわたしたちは生きている。 か細い生命の糸同士が、気まぐれに交差し、より合うこともある。 ときには交わりそうで交わらず、互いを切ない気持ちで見送ったりもする。 いま、車道をはさんだ向こうの歩道に、散歩する犬がこちらを見て笑っている(ようにみえる)。 わたしよりもはるかに短い命が、同じ味の空気を吸って、同じ色の光を浴びている。 すれ違ったわたしたちは、再びそれぞれの速度でそれぞれの瞬間を消費し始める。 もう二度と出会わないかもしれないし、これから何度も会うのかもしれない。さながら気まぐれな大小の惑星のように。 軽い気持ちでジャケ借り・タイトル借りした本に、そんな思わぬ思考へとワープさせられるのは驚きこそあれうれしいこと。 「食卓にきた犬」は、世間と隔絶した森林でくらす老夫婦の秘密基地のような家へ、突然一匹の犬が転がり込んでくるところからはじまる。 夫婦の短い生い先は、犬の登場によって、少し景色を変えていく。 もちろん、何かが劇的に変わるわけではない。彼らの寿命が延びたり、環境破壊や戦争がなくなったりはしない。けれども、3つの命がより合わなければ、存在しなかった喜びや悲しみがたしかに生まれる。 あと少しで燃え尽きるという、最期のきらめきの物語。 “言葉を得ることで失ったものがある。言葉を交わすということは世界を直接所有することであり、私は世界を失ってしまうことを常に恐れている。私は、文字に書き記すことで、次々と現れては、刻々と消えていく「リアル」を再現しようとする。時に、つかまえたと思う。でも、つまり、そう、いや、別にどうでもいい。書くことで現実をつかむより、直接現実と対峙できればその方がずっといい。現実の命の方が尊い。”
  • 2026年6月27日
    「待つ」ということ
    「待つ」ことは得意な方だと思っていた。  多少の隙間時間があっても、音楽やら読書やら独りでいくらでも時間を潰せるし、仕事やプライベートで先の予定を立てて準備することは苦ではない。ハンバーガーならマクドナルドよりモスバーガーが好きだ(昨日もエビとアボカドのを食べた)。  そうした「待つ」は、「期待」だという。  経験則や常識の範囲において、現在と強く結びついた未来。ほぼ今といえる未来。  一方で、「待機」するということ。  限りなく不確かな未来を待つ行為。いつ答えが出るのか、どんな答えが出るのか、誰にも分からない。次第に、待っていたのか、待たされていたのか、何のために待っているのか、今この行為に何の意味があるのか⋯⋯全てが虚空に吸い込まれていくような「待つ」。  「待機」することは、わたしは格別に苦手かもしれない。  例えば、仕事で部下に相談されたとき、部下の考えを理解した上で、それを常に尊重できていただろうか? わたしの頭の抽斗から、使い古したスパナをはいと渡しているだけでは無かったか?  例えば、悩んでいる友人に対して、なんとか早く立ち直ってほしいと、無理に前向きなことばを掛けていなかっただろうか? 次の季節に咲く花のような心に、早く咲けと水を遣り過ぎていなかったか?  「待機」と「期待」はちがう。とりわけ、ケアの世界では「待機」することに大きな価値がある。  誰を、何を待っているかを手放して、ただこの先に起こるであろうことを受け入れる体制を取ること。「待つ」を待つこと。  もう20年も前の本だけれど、今の時代はより「待つ」ことが難しくなっていると思う。こんな時代だからこそ、ここぞというとき、まず「待機」することを考えてゆきたい。  あとがきの書き出しの文章に救われるような思いがした。引用させていただき、心にしっかりと留めたい。  待つということにはどこか、年輪を重ねてようやく、といったところがありそうだ。痛い想いをいっぱいして、どうすることもできなくて、時間が経つのをじっと息を殺して待って、じぶんを空白にしてただ待って、そしてようやくそれをときには忘れることもできるようになって、はじめて、時が解決してくれたと言いうるようなことも起こって、でもやはり思っていたようにはならなくて、それであらためて、独りではどうにもならないことと思い定めて、何かにとはなく祈りながら何事にも期待をかけないようにする、そんな情けない癖もしっかりついて、でもじっと見るともなく見つづけることだけは放棄しないで、そのうちじっと見ているだけでもじぶんが哀れになって、瞼を伏せて、やがてここにいるということじたいが苦痛になって、それでもじぶんの存在を消すことはできないで……。そんな想いを澱のようにため込むなかで、ひとはようやく待つことなく待つという姿勢を身につけるのかもしれない。年輪とはそういうことかとおもう。
  • 2026年6月18日
    芝生の復讐
    芝生の復讐
    本棚を買い替えた。  サイズを元の半分くらいのものにしたから、当然中身も半分くらいにしなければならず、小説、エッセイ、漫画、雑誌、美術館の図録、映画のパンフレット、シール、写真、はがき、おみくじ、フィギュア、ぬいぐるみなどそこに敷き詰められていた何やかんやを残酷に選別しては、その日限りでごみへと変えていった。  リチャード・ブローティガンの小説や詩集のすべては、新しい本棚の見晴らしの良い一角に、背の順で収まることになる。  どれも外形的には、足元でビニール紐で縛り付けられた哀れな書籍たちよりも、もっとずっと擦り切れて、ごみに近接したなりをしているのだけれど、わたしがこれらを捨てることはない。名誉ある永遠のごみ候補者リスト。  「芝生の復讐」は、ブローティガンの著書のなかでも、まずタイトルに惹かれ、わたしが一番最初に読んだ本だった。  62編のいびつで素朴な短編集。危なっかしいほどに雄弁かつ滑稽で、何をばかなことを言ってるんだこの人はと笑った次の瞬間、同じ人に対して静かな感銘に打ち震えたりもする。  その後、中長編を読むにつれ、わたしはブローティガンという広い世界の放浪者となっていくわけだけれど、「芝生の復讐」、或いはその前作「アメリカの鱒釣り」にのみ備わっているような、作家本来の飾り気ない、心許せる田舎のような魅力というものはいつまでもかけがえがなく、そこにあり続ける。  このような折に触れては手に取り、ページを繰っては彼の、そしてわたしのものとなった田舎の芝生や雨や風、糸くずやあらゆるものを確認し、本はまたひとつごみに近付く。 ことばで表すことのできない感情と、ことばでよりはむしろ糸くずの世界をもって描かれるべきできごとに、今夜の私は取り憑かれている。 わたしの子供時代のかけらたちのことを考えていた。それらは形もなく意味もない。遠い生活のかけら。ちょうど糸くずのようなことがらなのだ。 リチャード・ブローティガン「糸くず」
  • 2026年6月11日
    存在の耐えられない軽さ
    存在の耐えられない軽さ
    プラハの春、激動の時代において翻弄される恋人、愛人たちの話。  哲学的恋愛小説、というのが凄くしっくりくる。  語り手は、主人公たちをまるで優秀な被験体として扱うかのように、その一挙手一投足を理路整然と解剖していく。  そのさまが説教臭くならないギリギリのバランスで、ユーモアたっぷりに展開されていくから、するすると読めてしまう。  物語を支配するのが、様々な対比、二項対立。  重さと軽さ、魂と肉体、共産主義と民主主義、神と糞⋯⋯  これらを巡って主人公たちはすれ違い、交わり合い、人生のコマを先へ進めていく。  そんな法則の埒外にあって、全てをつなぎとめる存在が、犬のカレーニンだった。  わたしは、「カレーニンの微笑」と題された最終章、途中号泣しすぎて読書を中断せざるを得なくなった⋯。こんな経験は久しぶり、というか初めてかも。  頭をフル回転させ、人生哲学と極上のユーモア&アイロニーに身を浸し、ラストには爽やかな読後感が待っている。とても大切な一冊になりました。 ​「テレザ、使命なんてばかげているよ。僕には何の使命もない。誰も使命なんてものは持ってないよ。お前が使命を持っていないくて、自由だと知って、とても気分が軽くなったよ」
  • 2026年5月17日
    象の旅
    象の旅
    16世紀、ポルトガル・リスボンからオーストリア・ウィーンまで、大国間の贈り物として、自らおよそ3000kmの道のりを歩いた象と一行のお話。 文体が非常に独特だった。 ページを埋め尽くす文字、文字、文字。改行は相当の場面転換があった時に留められるから。 地の文と会話は一体的。台詞を表す記号(「」)は用いられず、文章がひたすら句点読点でつながれてゆく。 著者自身もたびたび登場し、くだらないことからくだることまで、当時と現代の橋渡しをするように茶々を入れる。 特異な文章なのに、どうして違和感なく受け入れられるのだろうと思ったら、落語や講談、紙芝居を見ている感覚に近いのかも知れない。プロットと同等かそれ以上に、語り手自身の魅力を受け取る読書体験。 巨大で一見無感情に思える象のソロモンの一挙一動によって周囲の人々の心が揺れ動き、物語が進んでいくさまが面白い。象ってかわいいよね。
  • 2026年5月6日
    増補 普通の人びと
    増補 普通の人びと
    ホロコーストと聞くとすぐに強制収容所での凄惨な毒ガス殺人が思い浮かぶけれど、およそ600万人とされる全犠牲者のうち、20〜25%が銃殺によるという。 この本は、直接的な銃殺、間接的な収容所への移送を担った警察予備大隊のなかでも、最も「普通」な人の集まりであった第101警察予備大隊に関する研究であり、それを通して今・これからを生きる人間への警句を求めようとする試み。 本編最後につづられた次の文章が重く響いた。 どこでも、人びとは、社会によって権威への尊敬や服従を強いられるのであって、実際、社会はそうでなければ機能しないのである。またどこでも、人びとは出世を追い求める。すべての現代社会において、生活の複雑さ、それによってもたらされる専門化と官僚制化、これらのものによって、公的政策を遂行する際の個人的責任感覚は希薄になってゆくのである。ほとんどすべての社会集団において、仲間集団は人びとの行動に恐るべき圧力を行使し、道徳的規範を制定する。第一〇一警察予備大隊の隊員たちが、これまで述べてきたような状況下で殺戮者になることができたのだとすれば、どのような人びとの集団ならそうならないと言えるのであろうか。
  • 2026年4月21日
    増補 普通の人びと
    増補 普通の人びと
  • 2026年4月21日
    増補 普通の人びと
    増補 普通の人びと
  • 2026年4月21日
    増補 普通の人びと
    増補 普通の人びと
  • 2026年4月20日
    治安維持法
    治安維持法
    世にも名高い悪法であると、誰もが何となく知っているけれど、それがどのようにして出来て、悪法と呼ばれる成果を残したのかを具体的に知りたくて読んだ。最近の時勢にも応じて。 ざっくりとなぞると、政党がまだ力を持っていた時代に、ソ連とのつながりが強まり共産主義の侵犯を恐れた政府が、各省庁や政党間の利害も織り込みながら、比較的抑制された規定・運用のもと生まれたのがはじまり。その後、国粋主義、軍部の台頭、戦線の拡大など諸状況のもと、政党によるコントロールが利かなくなり、法改正や恣意的な運用拡大によってタガが外れてしまった、という感じか。 いかようにでも解釈可能な「国体」を基準に用いてしまったのが大きな過ち。最近のニュースで、「普通の市民」という言葉が使われるのを聞いたけど、こういった反省すべき過去を踏まえた発言とはとても思えないなあ(あるいは分かっていてあえてという線もあるけれど)。 そもそも、発端となった共産主義について、わたしの知識や理解がまだまだ及んでいないので、ここを押さえておかないとな、とも思った。
  • 2026年4月14日
    稲田俊輔のおそうざい十二カ月
    最近、朝ごはんをパン食から米食へと完全に切り替えた。  それに伴い、和食のレパートリーを増やしたいなと思っていたところ、敬愛するイナダシュンスケ氏がちょうど和食の新刊を出していたので購入。  タイトル通り、一年各月、それぞれの旬の食材を使ったレシピが順々に紹介される。基本的には夕食を想定した一食分の献立として提示されるのだけれど、一つひとつの料理は非常にシンプルで、かつ今まで試したことのなかった食材の組合せや調理法がさらっと書かれているので、非常にためになり、朝食にももちろん使える。これをあの食材に変えてもいいんじゃないか、という遊び心も喚起してくれる。  料理初心者から中・上級者までお勧めできる本です。  数あるレシピのなかでも、わたしの特に気に入ったものの名前をいくつか挙げておきます。こんな感じで、素朴な、でも気になるレシピがたくさん載っているので、気になったらぜひ読んでみてください。 ・焼きチキン南蛮のおろしタルタル ・馬鈴薯ご飯 ・かぶら葉の納豆汁 ・南京もちバターしょう油 ・白ねぎバター煮
  • 2026年4月3日
    ボードレール全詩集(1)
    ボードレール全詩集(1)
    普段は音楽を聴きながら本を読むのだけれど、ボードレールの詩はそれを許さなかった。言葉の喚起する五感へのイメージがあまりにも濃厚なので、ながら読みをすると理解の大きな妨げになってしまう。訳者まえがきには、ボードレールの詩の力、価値を信じる文章が引かれていて、流石の説得力だなと感じた。 「悪の華」はボードレールが生前発表した唯一の詩集であり、その内容の一部が公序良俗に反するとして刑罰を受けている。宗教的権威や公衆道徳の色濃い時代だからこその受難で、今読んでみてもこの程度で?と思うのだけれど、当時にこの筆致でタブーを侵すのは相当なインパクトがあって、その一歩が今のわたしたちの「普通」につながっているのだろうな、と思う。 この本を読んだのは、押見修造の漫画「惡の華」への理解を深めたかったため。主人公の春日にとってのバイブルのようになっている本だけれど、率直に中高生が理解して楽しめる類のものではない。むしろその分からなさそのものが重要。その先にある期待や不安や好奇心、学校という清廉さや従順さを求められるある種の教義的空間における逸脱の象徴なのだなとしっくりきた。
  • 2026年3月9日
    ネバーホーム
    ネバーホーム
    南北戦争、インディアナの農場で暮らす主婦コンスタンスは、体の弱い夫に代わり、男のふりをして戦争に参加する。 試行錯誤して原文を活かそうとしたであろう柴田元幸による独特な訳文は好き嫌いが分かれるだろうけど、朴訥で拙く、時にはっとするような情景を突き付けてくる主人公の語りは、まるで子どものちぎり絵のように無垢な鮮やかさに満ちている。 本来そこにいるべきでない人による戦争物語であり、文体の雰囲気からも、カート・ヴォネガット・ジュニアの「スローターハウス5」を思い起こし、重ねて読んだ。あの主人公よりは、この主人公のほうがだいぶタフ(むしろスローターハウスの主人公は夫に似ている)だけど、女性性という違ったレンズで、戦争の時代に弱い立場が被る理不尽、残酷さがズームアップされていた。 「neverhome」という言葉は著者による造語であり、かつ作中に一度も登場しない。表紙に不穏に浮かぶこの響きが常にあり、希望と諦念を両手に読み進めて行った。読み終えて、後に残ったのはだれしもの想像を超えるような喪失感で、まさにneverhomeとは言い得て妙だなと思った。 なんだか、人が読んでみたいと思うような魅力的な感想が書けないし、わたし自身もう一度読むかと言うと、結構食らってしまったので、相当に間を置くことになると思うけれど、間違いなく面白い、素晴らしい本です。数ページ捲ってみて、文章がお口に合うならば是非!
  • 2026年2月20日
    辺境のラッパーたち
    辺境のラッパーたち
    19人の著者による、500ページを超えるヒップホップ論。 特に、「グローバル」という文脈に回収されない、世界各国、辺境で独自に育つヒップホップに焦点を当てる。 正直、一人ひとりの著者に与えられるページ数は少ないので、どうしても表層をなぞり、型にはめた論理展開にならざるを得ず、素人がこの本だけで何かを判ることは出来ないなという感想、反省。ましてや音楽だからね、聴かないとね。研究会のホームページにはプレイリストがあるとのことなので、またゆっくり聴いてみたいと思う。 アラスカ先住民のラッパー、エア・ジャズ(Air Jazz)の引用された詞が印象的で良かったので記録しておく。 なんか、こういう民族的で、自分に無い価値観を信仰し、讃え、比喩する世界観っていい。 「オヒョウ釣り(Cháatl Ast’éixí: Halibut Fishing)」 エア・ジャズ(二〇二二年) ​僕はオヒョウと結婚するだろう…… 特に理由もなく…… そのことを誇りに思う 誇りに思う オヒョウ釣り オヒョウ釣り 高貴な人々 高貴な人々 緩やかに 僕らの生き方を誇りに思う 僕らが必要とする世界 僕らは聴く 君のボートはどこ? 君は「オヒョウ」と呼ばれる ダグラスとジュノーの人々 友よ 僕は釣り針に餌をつけてはいない
  • 2026年2月10日
    人種主義の歴史 (岩波新書)
    大航海時代まで遡り、本来は無いはずの「人種」という考え方の変遷や拡がりを今日に至るまで整理する。 「人種」は本来無いはずのもの。それを、肌の色や体つきの違い、生活様式などの中に認め、一方的な力関係において事実化する。単に未知・無知によって生まれる場合もあれば、時々の政治的イデオロギーを正当化するために恣意的に生み出される場合もある。 人種主義が暴走した最もおぞましい例の一つがナチスだけれども、ナチスが政権を得る前のワイマール共和政下において既に人種主義の芽吹きがあり、それを噴出させたのがナチスに過ぎないというのは興味深かった。 顔の見えないSNSでのコミュニケーションが主流となる中、「ネトウヨ」「サヨク」といったレッテル貼りも、現代の人種主義の一つだよなと思う。知ろうとすること、理解しようとすることを諦めてはいけないな。
  • 2026年2月2日
    未来をつくる言葉
    未来をつくる言葉
    以下は作者のプロフィール。 ドミニク・チェン Dominique Chen ​1981年生まれ。フランス国籍、日仏英のトリリンガル。博士(学際情報学)。NTT InterCommunication Center [ICC] 研究員、株式会社ディヴィデュアル共同創業者を経て、現在は早稲田大学文化構想学部教授。人と微生物が会話できるぬか床発酵ロボット『Nukabot』の研究開発、不特定多数の遺言の執筆プロセスを集めたインスタレーション『Last Words / TypeTrace』の制作を行いながら、テクノロジーと人間、そして自然存在の関係性を研究している。 ぬか床発酵ロボット!?、と気になって手に取って読んだ本。 全9章が、文字通り世界を飛び移っていくように、ちがった景色を見せ、教養の深みへと誘ってくれる。 この本のジャンルはなんだろう? 底知れない知的探究心を持つ著者による、精神的な冒険譚であるとともに、リアル冒険譚というのがしっくり来る。 互いを完全にわかり合うことなどできない。だけれど、そのわかり合えなさの接点から意味や価値が生まれ、新たになにかが始まる。さらには、表現しきれなかったものやこぼれ落ちてしまったものからでさえ。 著者のようにたくさんの自然言語・人口言語を操る人には、世界がもっと複層的で多義的に見えているのだろうなと羨ましく思った。でも、標準的な日本語話者のわたしにとっても、わかり合えなさ・表現できなさを大事にすることで触れられるものはあるかもな。 図書館で借りたけれど、買って手元に置いておきたいと思った。
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