
一年とぼける
@firstareethe
2026年6月29日
レシタティフ
トニ・モリスン,
ゼイディー・スミス,
篠森ゆりこ
読み終わった
感想
初めてトニ・モリスン『ビラヴド』を読んだ時、その文章から浮かび上がる情景の中の人物たちが「自然と」白人化されてしまい、自分の中の差別意識がいかに強く構造化され機能しているかに気付かされたのを思い出した。
『レシタティフ』においては、作中表現における人種的コードをあえて尽く外し、主要人物二人の人種は最後まで杳として知れない。語り部であるレワイラは白人なのか黒人なのか、様々な形で何十年もレワイラと関わるロバータは白人なのか黒人なのか、二人が異なる人種である事が明示されるに留まる。人種(差別)が無化されてはいないが、二人の人種は作為的に隠されている。
読者(の多く)は自然と二人の人種を探ろうとする。二人の生活や社会的態度、地理といった細部から人種の気配を嗅ぎ取ろうとし、その度に混淆された残り香に惑わされる。混淆された残り香はどちらでも「あり」どちらでも「ない」。人種的コードという機能は描写される事以上に、むしろ読み取る事によって機能するものだという実証を試みている。「実験」を称するこの作品は、トニ・モリスンが実験を試しているのではなく、読者が実験を試させられ続ける。
表向きの「実験」からシナリオへと目を向けると際立つ作品としてのヒューマニズム性の高さだ。解説でも参照されている『暗闇に戯れて』のはじめにを読むと、人種(差別)性を前提としたものとは言え、安楽な「ヒューマニズム的」という目論みへの警戒が語られている。
『レシタティフ』において、マギーという高度で複合的にコード化された象徴やトワイラとロバータの関係といったシナリオとしてはヒューマニズムへの誘導を意図した構成となっているのは確かだ。しかし、その誘導の先には作品から消去され得なかったコードが残る。
ヒューマニズムへと落着したかに見える結末は、やはりそこへの安穏は読者へも許していないと捉えるべきだろうか。


