
綾鷹
@ayataka
2026年6月30日

カフェーの帰り道
嶋津輝
時代を映す鏡であった仕事「女給」を通し、
大正から昭和を生きた市井の女性の人生を描き出す。
東京・上野の片隅にある、あまり流行っていない「カフェー西行」。食堂や喫茶も兼ねた近隣住民の憩いの場には、客をもてなす個性豊かな女給がいた。竹久夢二風の化粧で注目を集めるタイ子、小説修業が上手くいかず焦るセイ、嘘つきだが面倒見のいい美登里を、大胆な嘘で驚かせる年上の新米・園子。彼女たちは「西行」で朗らかに働き、それぞれの道を見つけて去って行ったが……。大正から昭和にかけ、女給として働いた“百年前のわたしたちの物語”。
短編が5つ。同じカフェー西行で働く、それぞれ別の女給の物語。
どの登場人物も、女性として懸命に働いて生きる姿が魅力的だった。
「出戻りセイ」「タイ子の昔」が特に好き。
女性だからと制限がある世の中で働く悲憤、戦争へ向かう男性に対して残される女性の焦燥...でも最後はみんなで支え合って前を向いていく強さと明るさを感じられる本だった。
・何で女給を続けるのか。女給の恰好が好きだから、という以外の答えが思い当たらず、セイに嘘をついてまでして誤魔化したこともあったが、人に見られたいという気持ちが、自分にもたしかにある。見られることで、自分という存在を、誰かに知ってもらいたかったのだ。今のいままで気づかなかったけれど。
自分を人の目の中に置きたいという欲は、きっとセイにも、嘉代にもある。昇降機ガールた
ちにだって、あるにちがいない。
田端方面に向かいながら、美登里は、自分の銘仙を見下ろした。浅葱色の地に議色の気続は、何年も着ているから生地がくたびれているが、よく身体に馴染んで、我ながら着こなせていると思う。
前後に人はおらず、誰に見られているわけでもないが、美登里は目一杯背筋を伸ばして、店でいつもそうしているように澄まして歩いた。
・昭和十四年に出征した向井は、二年後に戻ってきた。その頃、カフェーへの規制はますます厳しくなり、カフェーアウグイステヌスは「喫茶西行」へと正式に名前を変え、女給はセイと明子だけになった。
帰還後の向井とセイは店の外でも頻繁に会うようになり、二人で長い時間を過ごした。向井
はセイの書いた小説らしきものを繰り返し読んでは「俺の厚かましさもかなりのものだな」と笑い、「自分のことを読むのは妙な気分だが、こうしてみると俺もなかなか味わい深い人物と思える」と、満足げに童顔をほころばせた。
それからさらに二年が過ぎた昭和十八年、向井はふたたび召集され、二度とは帰ってこなかった。
・何でもないような毎日を、何とも思わずに暮らしてきたが、振り返れば、眠なことが一つもなかった。座布団の対角線とちょうど同じ大きさで寝転がっていた赤子のころから、見上げるほど逞しくなるまで、ずっと静かに、タイ子の傍らにいた息子だった。
それがいなくなった。兵隊にとられてしまった。
どうして戦争をしているのか、タイ子にはよくわからない。わからなすぎて、不平不満は抱いていない。新聞に満州という文字を見つけたときだけ、字引と首っ引きで必死に読む。
もう何年も食糧も物も乏しいし、化粧するのさえ憚られて不自由はあるが、そんなことはどうでもよかった。ただ豪一が帰ってきてくれればそれでいい。豪一さえ無事ならば、家が焼けようが日本が敗けようが、たいした問題ではないのだ。
・豪一は、果たして恋をしたことがあるのだろうか。いわらしご来なしいない。
どうか、そうであってほしいと思った。
相手と心を通わせたときの胸の高鳴りを、偶然手と手が触れ合ったときの温もりを、どうか味わっていてほしい。真面目一辺倒では、あまりに不側ではないか。
同時に、豪一はそんな歓びを知る前に出征していったのだという、暗い思念にも囚われた。
タイ子はその晩まんじりともしなかった。自分はまるで我が子を兵隊にするためだけに頑丈かつ従順に育て上げたようで、やるせなかった。
また、タイ子が放蕩であったのと引き換えに豪一が堅物になったようにも思え、自らの過去を悔やんだ。
・知らず知らずのうちに母を恐れるのは、自分に探しいところがあるからだ。幾子の胸の片隅には、いち早く兄の死から立ち直ったことに対する後ろ暗さがつねにある。自分は母に、「兄さんが亡くなったのに、すぐに元気になってすみません」と、頭を下げねばいけないのではないのだろうか。母はそれを待っているのではないか。
えんどう豆はその後しばらく兄の位牌の前に置かれていたが、三日目の朝、空っぽの小皿だけが豊に転がっていた。おそらく銀が食べたのだろう。母に気取られぬよう片付けた。
洗った小皿を布巾で拭きながら、幾子は、兄ではなく自分が生きていることが間違っているような気分になった。くだらない考えだと頭を横に振ったら、つられて指が滑ったのか小皿を土間に取り落としてしまった。
・「ねえ、幾子ちゃん。あんたみたいな若い子たちは、育ち盛りのころに食べられなかったでしょう?食べ物だけじゃない、他にもずいぶん不自由したはずよ。あたしはなんだかそれが可哀想でね、こんな物でよかったら、いくらだって食べてほしいのよ」
優しい声で語りかけられて、胸がいっぱいになった。セイさんの思いやりもありがたかったが、今の言葉を掛けてくれたのが母だったらどれほどよかっただろうというどうしょうもない空想が頭を占めて、幾子はついに涙を落とした。
「あらいやだ。どうしたの?」
セイさんは珍しく動揺して、奥さんに助けを求める。
「あんたがあんまりしつこくお菓子を押しつけるからじゃない?」「ええ、そうだったの?そりゃ悪かったわ」「あんたは、昔から厚かましいところがあるからね」「まあ、押しが強いっていう自覚はあるけど・・・・・・・」「いえ、セイさんが悪いんじゃないんです」
幾子はやっと声を出した。これ以上、二人を困らせたくはない。
営業中の店内で泣いてしまったことは決まりが悪かったけれど、お客は元従業員のタイさんだけだし、泣いた勢いも借りて、家の事情を先日の出来事を交えて洗いざらい話した。マスターも厨房から身を乗り出して幾子の話を聞いている。
「ーそれで、母とは何だか気まずくなってしまったんです」「はあ、そんなことがあったのね」セイさんがため息をつく。
「すみません、いただいたお菓子を粗末に扱って」
「それはいいのよ。でも、そうね。息子が外地で亡くなったんなら、アメリカの菓子なんて見るのも厭かもしれないわね」セイさんは同意を促すように奥さんを窺い見る。
「終戦から今までは、慌ただしくてあっという間だったもの。お母さんがまだ悲しんでいても仕方ないわ。だからと言って、幾子ちゃんがお母さんに付き合っていつまでも泣いている必要もないし」奥さんは神妙な顔で、珍しくしんみりと話した。
「幾子ちゃんは、お母さんより早く立ち直って当たり前よ。若い人は過去より未来のほうが長いんだから、先を見なくっちゃ。お母さんと幾子ちゃん、どっちも間違ってないわ」
・「これ、ゴールデンバットですよ。和男が呑んでたやつです」
父は小さく黒目を揺らし、茶の間に上がってきた。鞄を置いて、卓袱台につく。
「ーそういやあいつ、たばこなんて呑んでたなあ」
「そうなんですよ。ゴールデンバット、いえ、あの頃は金鶏って名前でしたねえ。私は金鶏を和男の出征の荷物に詰めてやりましたよ。慰問にも入れてやったし」父は黙って箱を持ち、しげしげと見つめている。
「それがいつの間にか、ゴールデンバットって名前に戻っているんですよ。私が知らないうちに、時代は流れているんですねえ」
しみじみとした声色に、父は目を見開いて母の顔を見る。
「でも、和男が好んだ味を試してみられて、よかったですよ」「・・・・・・・よし、俺も呑んでみよう」
「あらっ」
母と幾子は驚いて声を揃えた。
「なんだ。俺だって、たばこぐらい呑んだことはあるんだよ。ただ体質に合わなかったんだ。
匂いは好きなんだけどな」
父は、母と比べるとだいぶ慣れた手つきでたばこを取り、口に咥えた。
幾子がマッチを擦ると、父は眉間に皺を寄せてたばこの先を火に近づけた。すぐにたばこは燃え出し、じりじりと音を立てて赤く灯る。いかにも旨そうに煙を吐いた。
「私も、もう一本」
母は新たなたばこを口にし、幾子に火を点けるよう手振りで催促した。
「ふうーーーーーーーっ」
声混じりの煙を、母は前よりだいぶ上手に吐き出した。もう一口吸い込み、
「げほーーーっ!げほっ、がっ、ごほっ」
みたび烈しくむせ出した。
「おい、大丈夫か、無理する・•••••ごほ、ごほっ」「ねぇ、二人とも大丈夫?」
「大丈夫、不慣れなだけさ。ごほっ」
「げほっ、げーーーーーっ」「おい、幾子も吸ってみるか。げほっ」「えーっ、私?」
「駄目ですよ、幾子はまだ十七ですから。ごほっ」
「いいじゃないか、和男の弔いだよ。ちゃんとした葬式も出せなかったからな」「げほっ、ごほごほ。いけません。私が許しません」
父と母はむせながら根元まで吸ったあと、さらに一本ずつたばこを咥えた。
何度も咳き込みながら、二人とも吸い切った。小皿で火を揉み消す二人の目が赤く潤んでいたのは、煙が滲みたのか、咳き込んだせいなのか、兄を思い出したからなのかはわからなかった。
案外、むせ続ける自分たちが可笑しくなって、笑いを堪えていたのかもしれない。