ありたろう "ゲーテはすべてを言った" 2026年6月30日

ゲーテはすべてを言った
自分の顔面に空いた口を眺めているとよくもまぁペラペラと喋るもので、大方の場合、その場の流れに引っ掛けてカラカラと回り、豆電球が光るしかけのついたくだらない風車かそれ以下でしかない。 それでもここぞという時に(「愛」が絡むような場面では特に)「言葉」を大事にしたい、何かの力を持った「言葉」を示したい、という思惑は捨てきれない。幸いにして善い「言葉」に思い至ったとしてもなお、普段安売りしている軽口の数々とは質感の異なる重みにたじろいでしまうこともある。 眼前に「言葉」があった時にも、それを手に取り、自らの意志で口にするにはある種の勇気を必要とする。本書は主人公の統一が「愛」、つまり世界の複雑性の肯定についての「言葉」を口にする勇気を持つために、自らの小宇宙を再び見て回る物語となっている。 (発案者が自分であれ、誰それの名言であれ、)「言葉」に対してどのように向き合うかという問に対して、最終頁で以下のように一つの解を提示している。 >何故なら、その言葉は本当だったからだ。(略)善い言葉とは(略)口に慣らしていく中で自然さを獲得し、やがてその意味が開示されるだろう。そう信じるとすれば、言葉はどれも未来へ投げかけられた祈りである。 つまり統一が「愛はすべてを〜」という言葉に触れ、慣らしていく中で彼の人生の中で「その意味が開示され」、彼にとっての「本当」になったのだ。 「言葉」についての物語というプレートに「愛」についての物語という料理をのせているようにも思われ、であるならばたとえば「闘争」のための「言葉」についての物語にもなったのかもしれないが、恐らく著者にとっては本書を「愛と世界の肯定」のための「言葉」についての物語にすることに、意識的な必然性があるのだろう。本稿では詳細な言及を割愛したが、そう感じさせて余りある程の信仰と愛と世界について描写が、むしろ分量としては多くを占める。 いずれにしても読了後に我が身を省みてみれば、自分もまた善い「言葉」をモノにするため、照応して自らの在り方について内省することを忘れないようにしたいと思う。 それでもなお「言葉」を口にするのに万一あと一片の勇気が足りないときに、日頃から散々ぐるぐると回ってきた我が口の滑りの良さが、最後のひと押しとなって何かを伝えられるようなことがあるやもしれぬと思えばこそ、くだらないおもちゃの風車も少しは愛らしく見えて、たまには油でも注してやるかという気持ちも湧くのであった。
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