
ジクロロ
@jirowcrew
2026年7月4日
人間をみつめて
神谷美恵子
まだ読んでる
病人のほうがよほど純粋で敏感だから悩んでいるのであって、いわゆる健常者というものはよほど鈍感にできているのだと思わずにはいられない。
善悪の基準は文化によってちがうと言っても、人間の心に良心というもののはたらきが必ずそなわっていることは、素直にみとめるべきであろう。それはおそらく、類としての人間の生命を守るためにそなわった社会的な機能であろうし、脳が発達したため、自己にあい対して、「対自的に」生きるようになった人間の心のはたらきがしからしめるところだろう。
(p.98)
神谷さんの言うところの「対自」は、自分という(その時点におけるありのままの)ものから距離をおいて対「等」に向き合う、ゆえに悩む、のようなニュアンスが読み取れる。だから「病人」に寄り添うような考えにおのずと導かれ、「良心」というものが問題として挙げられる。
「いわゆる健常者」とは、ありのままの(自然な)自分で置かれた環境に違和感なく馴染んでいる「状態」。
神谷さんの言うところの「鈍感」とは、「自分さえ良ければ」という自己中心的な健常性に批判を向けているからこそ、強めな語彙になっている。
自分のいる環境のうちに、自分以外で一人でも悩んでいる人がいれば、自分も「病人」であるというような考えは、シモーヌ・ヴェイユの言う(目指す)ところの「不幸」に通ずるところがあるような気がする。
「対自」という言葉は、ヘーゲルの哲学では「即自」という言葉の対概念として出てくる。
「即自」とはありのままの自分、そして自然を指し、それらを「否定」する者が「対自」。この対自は環境(自然にあるもの)を否定し、自己を発展・成長させることを目的とし、理想に近づこうと「労働」にいそしむ。
この思想を実践する先に、おのずと「疎外」と「格差」が生まれてくる。つまり「病的」な要素が含まれている。
「病人」という言葉には寄り添うべき意味合いが宿されているが、「病的」(観念的)という言葉には近づきがたい何か、ブラックホール的な超重力が含まれている。
「対自」という概念が、その言葉の意味が、
他者との関係性を軸とした「良心」から生まれるか、自意識の働きによる「発展・成長」から生まれるかでこうも違ってくるのかという点に、はっとさせられる。




