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2026年7月5日
長い一日
滝口悠生
ふたつのテクスト、長編小説のなかの一章と短編小説を繋げて考えたり書いたりしたとき、どちらの本に投稿するべきか。と悩んだなら両方に投稿すれば良いのだ。多分。
滝口悠生さんの『長い一日』のなかの大好きな一節を読んだあとには「しわ犬」という章がはじまる。ここも元々好きだったけれど、再読してみれば、そこにある寂しさと悲しさに以前より強く心を動かされ、また違ったことを考えたりして、それから、キジ・ジョンスンのこれも大好きな「蜜蜂の川の流れる先で」(『霧に橋を架ける』収録)という短編を思い出した。
「しわ犬の家のすぐそばだよ、と妻はその家の場所を私に教えてくれた。そう言いながら妻は、しわ犬のことを思い出す。私もそう言われてしわ犬を思い出し、ふたりとも胸がいっぱいになった。私は、しわ犬の家の近くなら、多少無理してでも住みたいと思った。けれどしわ犬の家にしわ犬はもういないのだ。」
——滝口悠生『長い一日』「しわ犬」(p30)
妻が通勤途中に知り合い、夫もその後に知り合い触れ合うことになる近所に暮らすしわ犬(シャーペイ)。今はもう会うことのできない彼を思い出し、思い、胸をいっぱいにする「しわ犬」のなかの夫妻には、キジ・ジョンスンの短編「蜜蜂の川の流れる先で」を紹介してみたい。けれど、そんなことは出来ないわけだから、わたしがその短編をもう一度読むしかないわけだ。
老いと病で死とそれによる別れを間近に感じているジャーマン・シェパードのサムと彼と暮らすリンナはある日「ドライブ。変化が必要ね?」と車を走らせる。予想外に長くなったそのドライブは、「蜜蜂の川」に突き当たりその川を「終わり」に向かって辿り始めることになる。
その道行は愛するものとの別れを先延ばしにするようなものでもあり、ある意味でそこからの逃避でもあるし、その心の準備のために必要な時間なのかもしれない。なんにせよその間にもリンナはサムを愛し別れを恐れ続ける。「永遠に生きて」と。
そして辿り着いた「蜜蜂の川の流れる先で」は「幻覚をみているとわかっている」ような幻想的な場面に遭遇する。しかし、そこでもリンナの願いは叶わずに、彼女とサムには逃れられない別れが訪れる。けれどこの物語、そこにあるファンタジィの力はそれを優しく包んでくれる。
それは「リンナとサムは永遠に楽しく暮らしました」というようなファンタジーにしても不誠実なものではなくて、死やその別れからは逃れることは出来ないけれど、亡くなってもう会えないものを思い出し、思うことのまた別の意味を優しく教えられ、考えさせてくれるようなもので。
「あの日もらったポスターは今もとってあって、時々壁に立てかけてみる。私はそれを見るとしわ犬の停まいを思い出すけれど、妻は今も毎日のようにしわ犬の家の前を通っているから、しわ犬の家の前を通るたびに、少ししわ犬のことを思い出す。しわ犬がまだ生きていた頃は、今日はいるかな、いないかな、と思いながら中学校の前の道に出る角を曲がった。もういないとわかっていても、角を曲がる時に、少しその感じが心中に起こる。」
——滝口悠生『長い一日』「しわ犬」(p39)
もういないもののことを、とあるきっかけで、あるいは繰り返す日常のなかで思い出すとき、思うとき、そこには思い出すことの寂しさや、もう会うことも触れることも出来ないことの悲しさがもちろんあるけれど、その寂しさや悲しさを感じるということは、つまりはまだ忘れず変わらずに思っているということで。忘れなければ、そのものたちは、まだ、「いる」と思える、思っても良いのかもしれない。だって忘れてしまったら本当にいなくなってしまうから。「蜜蜂の川の流れる先で」を読み返して、そこにあったファンタジィの力に触れて、そう思いはじめている。そう思えば忘れない、思い出し思うことで感じる寂しさや悲しみも、そこから逃れようとしたり、振り払ったりするのではなくて、大切に抱きしめておきたい。それは、誰かが「いた」のではなくて、まだ「いる」ことの証明でもある、と思ってみたいから。
「蜜蜂の川の流れる先で」を読んで感じたそんなことを夫妻に語りかけるように、『長い一日』の「しわ犬」の章ももう一度読んでみたい。というのはちょっとキモいかな、と今書きながら思ったけど、この短編も大好きな小説の一章も、多分また何度も読み返すと思う。







