長い一日
73件の記録
たま子@tama_co_co2026年10月11日読んでる読書日記毎日日記朝、鮭ときのこの炊き込みご飯とポトフ。珈琲をのみながら『長い一日』。滝口さんはスーパーオオゼキのことをたくさん話せて嬉しいらしく、こちらもにこにこ読みながら、そういえばこんな風に家とその周辺環境に愛着をもつのは、わたしはこれまでの人生で今がはじめてかもしれないなあ、と思う。それは家族といるといつもバランス取り役になるのがめんどうくさいと気づいてしまってから寝る時間以外は神社や公園で過ごす日々がつづいたり、いざ一人暮らしになってもあまりの労働環境にこれまた寝る以外に家にいない日々がつづいていたからで、ずっとどこかで仮暮らしの感覚があったような気がする。ここ数年でやっと家と近くのスーパーや書店を気にいりながら自分の家として暮らせるようになったのは、時間の余裕と、すこしずつ集めた本や家具などすきなものに囲まれていること、猫がきてくれたおかげもあるかもしれない。と、住みはじめた頃に家具屋で一目惚れして買った緑のソファに寝そべりながら思う。読んでいると、記憶の扉が静かに開いていき、当時ぼんやり感じていたことに、ぼんやりとした暫定の答えのようなものができ、これまでの人生と今の暮らしへの感情と頭の整理がすこしずつできていくような。 p221 このお寺の創建は天和元年二月とあった。一六八一年。窓目くんが生まれる三百一年前。三六年しか生きていない窓目くんはその長さをうまく計れない。 お堂のなかもほかに誰もいなかった。窓目くんは静かにゆっくりと足をくずして、あぐらをかいた。腿と膝の布地が伸び、その伸びをたしかめる。ああ、また一日がのびる。今日のなかに三百一年が入り込む。今日は心まで自由に伸縮して、テレパシーみたいに、どこまでも気持ちが届けられそう。 制作物を一部担当した関係で、夕方から萬福寺のライトアップイベントとトークショーへ。1661年開創ということはわたしが生まれる332年前。窓目くんにならって、今日のなかに332年が入り込む感覚を味わってみる。紅龍の背を歩くようにライトアップを堪能し、木魚の原型となった大きな大きな木製の魚もみた。のびる一日。帰りに師匠と近くの駅でビールを飲んでかえる。



たま子@tama_co_co2026年10月4日読んでる読書日記毎日日記窓目くんが電車に乗りながら『茄子の輝き』の主人公と自分を重ね合わせ、びっちゅうと口にしてボックス席の向かいに座った美容師の草壁さんとそして飲みたいと思ったビールのロング缶が窓辺に現れるという、その妄想とも現実とも物語ともいえる瞬間は、自分が半分目覚めている自覚をもちながら何度も夢をみているときの眠りのあわいのそれにとても似ている気がして、ということを考えながら、ああ滝口悠生さんの文章に引っ張られて一文が長くなる……自分の経験にはない物語のなかのそれが、まるですべて自分の経験のように思えてくることはよくあって、気づけばあらゆる生を生きていて、気づけば自分の考えのようになり、気づけば身に宿している、その物語の効用がわたしはだいすきなのかもしれない。この本は意識の流れそのものを読んでいる感覚になるので、自然とこちらも脳内の独り言が多くなるらしかった。







たま子@tama_co_co2026年10月3日読んでる読書日記毎日日記ぴー太の前職の社長と会社のひとたちとごはん。わたしの仕事も気にかけてくれるあたたかい人で、美味しいものがだいすきな方。福島の「花くじら」というおでん屋に連れて行ってもらい、とくにねぎ袋がめちゃくちゃ美味しく、ゆばや生麩などの変わり種おでんも多く、わくわくのごはんだった。夜『長い一日』読んで眠る。
たま子@tama_co_co2026年9月26日読んでる読書日記毎日日記ぴー太が予告編をなんどもなんども観て公開をたのしみにしていた映画『我々は宇宙人』を観に映画館へ。それはそれはよかった……のだけど、よかったと言えないくらいヒリヒリ痛くてかさぶたを剥がすような痛みから、棍棒でぶん殴られるような痛みまでいろいろに感じて、でもそれと同じくらい、眩く美しい情景やあまりにリアルな子どもの視点、大人になりかけの視点が脳裏にこびりつき離れない。観おわったあと、すこし放心状態でふわーとなりながら、鎌倉パスタを食べた。やけに美味しかった。もちもち。夜『長い一日』読む。窓目くんが酒に酔い電車をまちがえタクシーで帰るときに歌った、誰も知らない本人さえわすれてしまった歌が聴きたい。誰かのそんな歌ばかり集めたアルバムが世界のどこかに保存されていたらいいのに。






たま子@tama_co_co2026年9月21日読んでる読書日記毎日日記朝から母の引っ越しの手伝いへ。ひたすら箱詰め作業。昔撮った大量のプリクラなどが出てきて、こんなにもたくさん……記念に数枚と、母が姉弟それぞれに残してくれているアルバムや母子手帳をもらう。わたしがうまれた日の記録には「うまれた時はあっという間で、外はしらじらとあけてきて、エアーサプライなどのきょくがかかった中、けだるさと、満足感で……しあわせでした」と書かれていた。小学3年生になる姪のゆずはとてもはたらきもので箱詰めを手伝ってくれ、弟子ができたような気分になる。「ばばちゃん、何かあったらゆずに連絡してきてね、母(姉)は気づくのおそいから」と言えちゃうおばあちゃん想いの優しい子。一通りおわったあとケンタッキーをたのんで食べ、帰り際ゆずと何度もハイタッチしてかえる。夜、引き続き『長い一日』すこし読んで寝落ち。









たま子@tama_co_co2026年9月20日読んでる読書日記毎日日記@ 北陸新幹線サンダーバードと北陸新幹線を乗り継ぎ日帰り金沢旅へ。「週末雨上がって〜夢はサンダーバードで」とフジファブリックがあたまのなかで流れている。昼、洋食だいだいのハントンライス。想像していたよりさっぱりしていておいしい。金沢21世紀美術館で『歩く、とどまる展』、『ともにある風景展』。牛島均さんとさわひらきさんの映像インスタレーションがとてもよかった。美しい珠洲の風景と詩を通して、その場に息づく記憶や時間が映し出される。歩いて、立ち止まって、座り込んで、壁や布や床の鏡から流れ過ぎてゆく景色と言葉をぼーっとながめる。そのあと、石浦神社、鈴木大拙館、寿司屋人人、6 APARTMENT COFFEEへ。金沢の街からたっぷり刺激を受けてふくふくした帰り、金沢駅前で子どもたちの和太鼓演奏があり何気なく立ち止まって聴いただけなのに、腹に響く音の迫力におもわず涙。さいきん子どもが何かしているのを観るだけでわけもなく感動する。わたしも小学生の頃に和太鼓を習っていたことがあって、そのときは練習をさぼることばかり考えていたけど、なんだかんだ6年間もやっているとそれなりに叩けるようになっていたし、舞台に立っているとき、こんなふうにどこかの大人を泣かせたりしていたのだろうか。みたいなことをぽろぽろと思い出す。大人は涙もろくてこまる。行き帰りのおともは『長い一日』。ぴー太は新幹線のホームで買ったサーティワンのホッピングシャワーを座席に座りパチパチいわせながら食べていて、このとぼけた感じがときどき結構いいなと思う。 p28 何かを思い出せば言葉になり、その先には誰とはっきりしなくとも、誰かが宛て先らしく立つ。どんな楽しいことでも、思い出すという行為のなかには、必ず少しの寂しさがあって、当たり前だが寂しさは過去形のなかにしかないし、誰かに向ける言葉も過去形のなかにしかないが、過去がなければ幸せだと感じることもたぶんなく、寂しさも幸せも思い出す愛着の影、と絵手紙に書きたい二〇一七年でいちばん寂しい日だった。










たま子@tama_co_co2026年9月18日読み始めた読書日記毎日日記夜中3時頃におき眠れなくなる。はやく寝すぎたか〜と思いながら寝るのをあきらめふとんのなかで『北欧貴族〜』のつづき。朝、歯医者。かえって制作。昼、鰹のたたきときのこのサラダ。ポテトチップス。夜、打ち合わせ一件。『カウンセリングとは何か』すこし、『長い一日』読みはじめてすぐ寝落ち。







DN/HP@DN_HP2026年9月14日本と日記のある過去「私はその日のことを忘れないだろう。話す気もないある日のことを忘れないというのは変なことかもしれない。私の人生を過去から未来へ流れるようなものとしてここから眺望するとき、どこかに引っかかってその流れを少しだけせき止める流木のようなものだ。あそこに見えているような。」 わたしにもそんな日があっただろうか、と考えてみれば思い出される日がたしかにあって。それは人に話す気がないというか、話すほどのことでもないというか、もしかしたら何かの拍子で話してしまうかもしれないけれど、そもそもどう話せば良いのかもわかっていない、そんな今はわたしだけが憶えているわたしだけのある日。ここから見える川には見当たらないけれど、流木がたしかにその周辺の流れにわずかな変調をもたらすように、わたしの人生にも、僅かかもしれないけれどたしかに変調を与えた、今いるこの場所に辿り着かせた、と改めて考えてしまえば、そう言えてしまえるような一日。 「八朔さんは日記をつけていないから、それがいつの一日だったのかはっきり思い出せない。いつだかは思い出せないが、たぶんその一日のことは忘れないし、これから先誰かに話すつもりもない。」 わたしも日記をつけていないから、それがいつの一日だったかははっきり思い出せないけれど、そのとき見たものや感じたこと、それにそのとき嗅いだ香りを今鮮明に思い出せて、少し驚いた。この小説のことを考えたり思えば、あるいはまた川にきたり見たりすれば、やはりまた思い出さずにはいられないだろうそp-の一日のことは多分忘れないし、今のところは誰に話すつもりもない。そんなことを考えた今日という一日もまた忘れない、夏の陽射しと秋の風を同時に感じたような心地よさや、空の青さと雲の白さ、久しぶりに腰掛けた木のベンチの感触、そこで読んだ数頁と一緒に忘れたくない、と愛おしく思っている。










のそのそ@nosonoso2026年9月13日読み終わった(この作品で書かれているのは1日間だけではないけど)1日を書いてみると、たぶん過去も未来も飛び込んできて1秒がどんどん長くなって、ある読者は生活のなかで時々開きながら1ヶ月半かけて読んだ。
atomin@atomin_1272026年9月12日読んでる今日は、窓目くんの話。窓目くんの涙と愛の話。 自分は「くそ、こんなことで泣いてたまるか、泣くな自分」ってと思ったときほど溢れ出てしまう気がする。またそれがどうにもコントロールできないことに悔しさのような感情が拍車をかけてしまうような…。 今夜は窓目くんの涙を思いながらビールを飲もう。



atomin@atomin_1272026年9月7日読んでる今日読んだのは、「しわ犬」のお話。 このお話でシャーぺイ(沙皮)という中国原産の犬種を初めて知って、そんなしわしわな犬ってどんなんですの?と思って画像検索したら、想像以上のしわしわ具合が可愛いかった🫰 ペキニーズも好きなので、中国の土着犬・古代犬種などにも俄然興味が湧いてきた。 チベット原産のラサ・アプソなんかは、ウルトラ怪獣やジョジョのスタンドにいそうな感じ (完全に脱線!)




Michika@0610shun2026年9月7日買った読んでるどうして突然泣いてしまったのか、 説明しようと思えばできるけど、 それが全てではない。 言い尽くせない事柄の方が多い。 滝口悠生さん、 違和感を覚えるような記録出来ない部分、 現実でそれが見えてしまったら 心地良いと思えない部分、 そういう人の感情を「読んだり話したりできる形に」で小説にしてくれる。 そういえば最近感情が止まったままだったなぁと 思い出させてくれ、 少しだけ揺らしてくれる感じが心地よい文章。









とむ@tom_books2026年9月4日読んでる@ 電車ここ数ヶ月記録を怠っていたので、思い出せる限りまとめて。とはいえ考えなくてはならない現実の割合が大きくて、あまり本の世界に浸れなかったここ最近。そして今も
chroju@chroju2026年8月16日読み始めた数日前から読み始めてるものの、冒頭に出てくる「長らく前を通るたびに憧れていた一軒家が貸しに出ていたので、これは住めるチャンスかも知れないと内見に行ってみるが、中を見ているうちに懸念が増えてくる」という話が、自分も身に覚えがあるのもあって、そんなに大きな悲劇でもないのに存外に凹んでしまってなかなか読み進まない。楽しみにしていたものが、別に誰が悪いでもなく崩れていくというできごとが僕はわりと苦手だ。そういう、どこにでもある等身大の切なさを掬い上げて、きちっと共感できるぐらいの描写で書いてくれるから、滝口の小説が好きなのだ。
chroju@chroju2026年8月2日買った@ 有隣堂 キュービックプラザ新横浜店最近は文庫本を買うときは必ず有隣堂にして、昨年11月に生産終了してしまった無料カバーを付けてもらってるが、意外と在庫がまだまだあるのか無くならない。今回は8番のアイボリーに。




DN/HP@DN_HP2026年7月21日今作の主要というか滝口作品において重要人物である窓目くんが自身でもモデルになっていると思う(同じく滝口さんの)『「茄子の輝き』の人のことを考えはじめ」ればいつにまにか、直前に髪を切ってもらった美容師の草壁さんと行ったこともない島根のJR伯備線に乗っている「伯備線に乗って」という章も良いんだよな。滝口さんの書く電車の話はいつもちょっと幻想的でロマンティックな気もしてうっとりしちゃう。アンソロジー『鉄道小説』の「反対方向行き」とか『新潮』に載っていた「テレポートの軌道」とか。 で、そんな「窓外をずっと線路と並行するように川が流れていた」シーンに音楽を流すとしたら、草壁さんが「私は音楽はアンビエントとかドローンとかが好きなんですけど、」と言っていたから、Hinako Omoriの「Studies On A River」はどうだろうか。川からの連想というか、わたしが最近聴いていただけな気もするけど、結構良い感じになるのではないだろうか。






たま子@tama_co_co2026年7月20日買った読書日記毎日日記昨日一昨日で買った本。読みたいと思いつづけていた『長い一日』が先に文庫化されてしまった。三宅香帆さんの新刊『「夫婦」不在社会』は、紹介されている本がほぼすべて村上春樹作品ということで、妙に気になり購入。たぶん読んだら、未読の春樹作品をどんどこ読みたくなってしまうので、読み時を見極めねば。ここ数日は一度観たことのある映画を気楽なきもちで観かえすのにハマっていて、むか〜しに観たものが記憶以上によかった!ということが繰り返されていて、とてもよい。朝からたぶん痛んだヨーグルトを大丈夫だろうと食べてしまい(昨日買って帰って冷蔵庫に入れ忘れてリビングに放置されていた)お腹を壊してトイレを行ったり来たりして、何をしているのだか……とおもう。本を読み、漫画を読み、アニメ映画『ルックバック』を観て、ふわあああ……となり、また本を読み、みたいな一日。










DN/HP@DN_HP2026年7月18日心に残る一節「窓目くんは手すりを叩く手を止めて、自分の腹まわりに手をやった。若い頃は皮膚のすぐ向こうにあった胃袋が、いまは厚い肉を隔てた向こうにあると感じられる。体の表面からの距離は遠くなっても、胃袋の存在感は昔より増している。昔はそのなかでどんな音楽も鳴ることはなかった。食い道楽、私は食い道楽、と歌はまだ続いていて、歌の出処は口元から随意に腹のなかへと移動する。体が揺れれば、お腹も揺れる。余分な肉が遠心力でタイムラグを生み、それがグルーヴになる。涙を流した感じはいつの間にかひいていた。」 わたしもお腹でグルーヴを感じるようになってしまった。








ひつじ@hitsuji_zzz2026年7月14日読み終わったずっと、単行本を図書館で借りて読むリストに入れてたら、本屋さんで文庫本が発売されたことを知り大喜びで買った。一ページ目から、自分のチャンネルがカチッと合う感じがした(好きな文章、の意)。 スーパーの話と、料理の話と、しわ犬の話が好き。いやぜんぶ好き。


DN/HP@DN_HP2026年7月8日「私は花の名前は詳しくなくて、すぐ間違える。」 ——「二〇一七年八月一六日(1)」 この言葉が書かれたあと、7年(多分)の年月を経て、『たのしい保育園』収録の「連絡」という短編では、娘と散歩することで花の名前に少しづつ詳しくなっていく父親の胸中が語られることになるんだよな、と別の小説、作中人物と作家は分けて考えるべき、ということを踏まえたうえでもその年月と変化に深くなる感慨を止めることが出来ない。 わたしが花の写真を撮って名前を調べるようになったのは、完全に去年の夏に読んだその短編の影響で。作中の「ももちゃんのお父さん」は「ももちゃん」にその覚えた名前、言葉を向けるわけだけれど、わたしにはそれを向ける先がないのでSNSに投稿しているのだった。久しぶりに読んでいる『長い一日』で以前はあまり注目もせずに読んでいたかもしれないその言葉に再開したことで、わたしの行動には、その変化への少しの羨望や年月への哀しみもあったわけだ、と気付いたりしてもいる。わたしの好きな花はサルビア・ミクロフィアです。









Anna福@reads--2503092026年7月8日読み終わった滝口悠生の本を読むと、いつも空也像が思い浮かぶ。あの口から阿弥陀仏が出てる人。 入れ替わり立ち替わり登場人物が現れてはその思考と言葉が途切れず流れ続けるのが心地よい。 過ぎ去ったもの、今はもうないものへの愛着、愛惜。「その愛着もまた、失ってはじめて気づくものだったから。」 読んでいたら、ひとつの思い出がまた次の思い出を呼ぶ。私の「長い一日」は、まだ終わらないね。








DN/HP@DN_HP2026年7月5日ふたつのテクスト、長編小説のなかの一章と短編小説を繋げて考えたり書いたりしたとき、どちらの本に投稿するべきか。と悩んだなら両方に投稿すれば良いのだ。多分。 滝口悠生さんの『長い一日』のなかの大好きな一節を読んだあとには「しわ犬」という章がはじまる。ここも元々好きだったけれど、再読してみれば、そこにある寂しさと悲しさに以前より強く心を動かされ、また違ったことを考えたりして、それから、キジ・ジョンスンのこれも大好きな「蜜蜂の川の流れる先で」(『霧に橋を架ける』収録)という短編を思い出した。 「しわ犬の家のすぐそばだよ、と妻はその家の場所を私に教えてくれた。そう言いながら妻は、しわ犬のことを思い出す。私もそう言われてしわ犬を思い出し、ふたりとも胸がいっぱいになった。私は、しわ犬の家の近くなら、多少無理してでも住みたいと思った。けれどしわ犬の家にしわ犬はもういないのだ。」 ——滝口悠生『長い一日』「しわ犬」(p30) 妻が通勤途中に知り合い、夫もその後に知り合い触れ合うことになる近所に暮らすしわ犬(シャーペイ)。今はもう会うことのできない彼を思い出し、思い、胸をいっぱいにする「しわ犬」のなかの夫妻には、キジ・ジョンスンの短編「蜜蜂の川の流れる先で」を紹介してみたい。けれど、そんなことは出来ないわけだから、わたしがその短編をもう一度読むしかないわけだ。 老いと病で死とそれによる別れを間近に感じているジャーマン・シェパードのサムと彼と暮らすリンナはある日「ドライブ。変化が必要ね?」と車を走らせる。予想外に長くなったそのドライブは、「蜜蜂の川」に突き当たりその川を「終わり」に向かって辿り始めることになる。 その道行は愛するものとの別れを先延ばしにするようなものでもあり、ある意味でそこからの逃避でもあるし、その心の準備のために必要な時間なのかもしれない。なんにせよその間にもリンナはサムを愛し別れを恐れ続ける。「永遠に生きて」と。 そして辿り着いた「蜜蜂の川の流れる先で」は「幻覚をみているとわかっている」ような幻想的な場面に遭遇する。しかし、そこでもリンナの願いは叶わずに、彼女とサムには逃れられない別れが訪れる。けれどこの物語、そこにあるファンタジィの力はそれを優しく包んでくれる。 それは「リンナとサムは永遠に楽しく暮らしました」というようなファンタジーにしても不誠実なものではなくて、死やその別れからは逃れることは出来ないけれど、亡くなってもう会えないものを思い出し、思うことのまた別の意味を優しく教えられ、考えさせてくれるようなもので。 「あの日もらったポスターは今もとってあって、時々壁に立てかけてみる。私はそれを見るとしわ犬の停まいを思い出すけれど、妻は今も毎日のようにしわ犬の家の前を通っているから、しわ犬の家の前を通るたびに、少ししわ犬のことを思い出す。しわ犬がまだ生きていた頃は、今日はいるかな、いないかな、と思いながら中学校の前の道に出る角を曲がった。もういないとわかっていても、角を曲がる時に、少しその感じが心中に起こる。」 ——滝口悠生『長い一日』「しわ犬」(p39) もういないもののことを、とあるきっかけで、あるいは繰り返す日常のなかで思い出すとき、思うとき、そこには思い出すことの寂しさや、もう会うことも触れることも出来ないことの悲しさがもちろんあるけれど、その寂しさや悲しさを感じるということは、つまりはまだ忘れず変わらずに思っているということで。忘れなければ、そのものたちは、まだ、「いる」と思える、思っても良いのかもしれない。だって忘れてしまったら本当にいなくなってしまうから。「蜜蜂の川の流れる先で」を読み返して、そこにあったファンタジィの力に触れて、そう思いはじめている。そう思えば忘れない、思い出し思うことで感じる寂しさや悲しみも、そこから逃れようとしたり、振り払ったりするのではなくて、大切に抱きしめておきたい。それは、誰かが「いた」のではなくて、まだ「いる」ことの証明でもある、と思ってみたいから。 「蜜蜂の川の流れる先で」を読んで感じたそんなことを夫妻に語りかけるように、『長い一日』の「しわ犬」の章ももう一度読んでみたい。というのはちょっとキモいかな、と今書きながら思ったけど、この短編も大好きな小説の一章も、多分また何度も読み返すと思う。







どうどう@toutoutoudo2026年6月30日読み終わった人間は立体なので360度ありますが、私から見える180度じゃなくて裏側の180度が見えるのかな!?と思ったら皮を剥いだ中身が見えた!って感じでした!最高です! 人が自分だったり周囲のことを語る時にどうしてもそうすっかみたいな気持ちになりがちなのになんか吸引力があり引き摺り込まれていった。柴崎さんがでてきて柴崎さんだ!となっていたらなんかあらゆることは今起きるって言葉が実態をもって現れてびっくりした。 窓目くんパートが一番好きでした。




DN/HP@DN_HP2026年6月24日「最寄りのスーパーはオオゼキではないが、地図をたどれば必ずどこかに最寄りのオオゼキはある。」 写真のオオゼキは通りかかったオオゼキだけれど、実は最寄りのオオゼキでもあるかもしれないオオゼキ。










DN/HP@DN_HP2026年6月20日先に倉本さおりさんの「解説」だけ読んでしまったけど、とても良かった。この解説にも「愛があった」。わたしもオオゼキのパートは好き、というかあそこはきっとみんな好きですよね。 わたしも「最寄りのスーパーはオオゼキではないが、地図をたどれば必ずどこかに最寄りのオオゼキはある。」のだ。心に留めておきたい言葉である。あと、わたしの(多分)最寄りのオオゼキの近くには、とても素敵な古本屋さんがある。




















































