
しまりす
@alice_soror
2025年3月24日

手の倫理
伊藤亜紗
読んでる
西洋の触覚論
石や木のようなものが対象、人の体を対象としてない、「さわる」偏重の触覚論
3つのポイントを「さわる」から「ふれる」へ更新していく
西洋哲学の文脈では触覚は「劣った感覚」
精神的感覚と考えられた視覚が最上位
ex.プラトンのイデア論(「見る」意味を持つイデインというギリシャ語に由来)
◎【距離】の有無による→視覚と聴覚が上位(精神的)、嗅覚、味覚、触覚が下位(動物的)
◎【持続性】の問題、認識するのに時間がかかる
ex.インドの寓話、「群盲象を評す」非西洋社会でも劣った感覚
c.f.モリヌー問題
大陸合理論(ライプニッツ)v.s.イギリス経験論(ロック、バークリ)
→「架空の盲人」byジョージナ・クリーグ、視覚障害者の学者
コンディヤック『感覚論』(1754)
◎私が私にふれるとき、それは同時に「ふれられているのは私だ」という感覚をもたらす
この触覚に特有の主体と客体の入れ替え可能性を、本論では触覚の【対称性】と呼ぶ
対称性は「体をもった物理的な存在としての私の発見」という形で経験
触覚は、「魂を自己の外へ脱出させる感覚」
実際、私たちは自分の体の輪郭をみうしなうということがありうる
うつ展の時の感覚、「自己の輪郭の急激な変化」
病でなくても、日々の生活のなかで自分の輪郭を見失い、不安にかられることがある
そんなとき、ふと何かに包まれたり抱きしめたりすることで、精神的な安心を得たり、確かさの感覚を取り戻したりすることがある
さわることでさわられ、そのことによって自分の存在を確認する
私たちが輪郭を見失ったとき、触覚の対称性ざ、確かな安らぎをあたえてくれる
p.64-65序のまとめ的な部分
◎【距離ゼロ】
触覚はさわり方しだい、ふれ方しだい
触覚は「さわる」「ふれる」という身体運動の結果として得られる
ex.大福、普通にさわれば皮のやわらかさ、表面をなでるようにさわれば柔らかさというより乾いた粉っぽさ
畳、目と並行になでればツルツル、逆らうようになでればザラザラ、手のひらでなく指一本で触ればい草の繊維を細かく感じ、寝そべってほっぺたを押しつければひんやりした心地よさ、上に立てば足裏でふれるというより「乗る」ことになり、板張りの部屋から移動した時は柔らかさと弾力を強く感じる
「触感は『触り方』である」by仲谷正史ら『触楽入門』
対象についての情報と、それを得ようとするときのさわり方(触探索動作)六つ
・テクスチャ……表面をなでる
・全体の形……両手で包み込むように触れる
・細かな形……輪郭をなぞる
・硬さ……圧をかけて押し込む
・重さ……手のひらで受ける
・温度……手を置いて静かにする
→「さわる技術」も問題になる、「ふさわしいふれ方」
ドイツの哲学者ヘルダー『彫塑論』(1778)
西洋の触覚論のなかでは例外的に、「生命」という観点から触覚について論じる(こちらも健常者側からの視点なので架空の盲人的になっていることは否めない)
従来は絵画と同じく視覚的とされた彫刻は触覚的な芸術と主張「絵画は視覚のために、彫刻は触覚のために」
触覚には、視覚や聴覚なはない、人間がこの世界で生きていく上で重要な役割がある
視覚を排することで見出した触覚の「深み」
視覚=対象を「横に並んでいるもの」として捉える感覚→絵画
聴覚=対象を「時間的に前後するもの」として捉える感覚→音楽
触覚=対象に「内部的にはいりこむもの」として捉える感覚
さわる手に対して、
⑴対象がみずから語り出す(さわり方しだい)
そしてこの語りにおいて、
⑵動きのレベルで対象がとらえられている
「生命」「魂」、内部にあるもの、奥にある「たえず動いてやまない流れ」を手はとらえる「彫刻は内へ内へとはいりこんで仕事をする。存在し永続せよとばかり、生命をおび、魂にあふれた仕事である」
自然が作り出したものの内部にある、生命や魂のたえず動いてやまない流れ。この「自然のことば」を聞くことが触覚の役割、それを形にするのが彫刻という表現
我々は人の体にふれることで、その表面の情報(その人の肌の柔らかさやすべらかさといった物理的な質についての情報)を得るだけでなく、相手がいまどうしたがっているか、どうしたくないか、その衝動や意志のようなものにふれられる
触覚の「内部的にはいりこむ」性質が、「対称性」に結びつく
「ふれることは直ちにふれ合うことに通じる」、この「相互嵌入の契機」、「いわば自己を超えてあふれ出て、他者のいのちにふれ合い、参入するという契機」が、「さわる」にはない、「ふれる」ならではの深みを作り出す
触覚以外の互換、色「を」見る、音「を」聞く、臭い「を」かぐ、甘さ「を」味わう
「ふれる」に関しては、額「に」ふれる
助詞が違う、他の感覚と違って、主体と客体を明確に分離せず、内部に入っていく感覚だから
哲学者の坂部恵『「ふれる」ことの哲学』(1983)→和辻の「間柄」をめぐる倫理学にやや批判的「『間柄』のありか。『人と人の間』だけにかぎった和辻哲郎の『人間の学』が『間』の学としてはややせますぎるきらいがある」
ラグビーのスクラムの例
『味方を感じる』のは、お尻の部分。前に押そうとしても、後ろの選手と一緒に上手く縦方向に力を入れて伝えないといけない。味方同士で自分の感覚を伝え合う
味方だけでなく敵の意志も触覚を通して感じ取らなければならない
ラグビーは「相手選手と自分の共同作業」
セーリングの例
より複雑に、三次元的に感じ取る
お尻で感じる船の挙動や加速感、ロープから伝わる帆の張り具合で風がどこから吹いてきているか感じ取る
「当て舵」波の動きや傾きを読んで小刻みに舵を当て、船がフラフラ前後左右に傾くのを防ぐが、舵を切ってから、ボディがその操作に従うためのタイムラグを考慮しなければならないので風や波の動きを予測しながら、先回りして舵を切らなければならない「ディレイを含み込んだ触覚のスポーツ」
「ふれる」触覚は、物理的には「距離ゼロ」で相手の体に接触するとしても、知覚はその表面にとどまらず、「内にはいりこむ」性質を持っている
「ふれる」は物理的に距離があるほど、つまり相手の体との接触が間接的であればあるほど、表面の知覚にまどわされずに、純粋に内にはいりこんでいける
距離があるほど、逆説的にも入っていける
このことは触覚が「距離ゼロ」というより、「距離マイナス」であること、対象の内部にある動きや流れを感じ取る感覚だということを示す

