
綾鷹
@ayataka
2026年6月12日
くよくよマネジメント
津村記久子
津村記久子さんのエッセイ。
自分が普段悩んでいることと近くて、読みながら癒された。
津村さんの冷静で現実的な話に勇気づけられる。
・大事なことは、くよくよしているか、さばさばしているかではないと思います。それは単に自分自身のことで、本当に考えなければいけないのは、その時に心に浮かんだことを、口にすべきかどうかです。それをくよくよ考え込むことが必要なのなら、そのくよくよは肯定されて良いと思います。
また、たとえば、別の側面から観て、「何でも言っちゃう」派は、逆に「何でも言われちゃって」平気なのでしょうか。わたしが経験上知っている「何でも言っちゃう」派は、物理的に声が大きくて、反論を自分の声で覆い隠してしまうようなタイプが多かったのです。彼女たちには、自分自身の声によって、自分の心の行方を翻弄されているようなところがありました。大振りな宣言が、自由を制限しているように見えたわけです。そのことが、心の負担にならないわけがなく、仕事でプレッシャーを感じると、シンプルに弱音を吐くのではなく、他の人に当たるという屈折した行動に出たり、お酒に溺れたり、更にそういう自分の行状を誇らしげに語ったりしていました。そういう人に「何か言っちゃう」と、何倍にもなって返ってくるので、当たり前に自分の心を守ることを心がけている人たちは、彼女たちに何も言わなくなるのです。
心が自由であることが最も重要だと思います。体でたとえると、よけいな賞言や、外面的な、人に言うための美徳という脂肪に縛られていないことです。そうやってできるだけ心を軽くし、吹き付けられる毒をかわし、体のうちから湧き上がる毒を排出することであるように思います。
そういうわけで、くよくよ族のわたしなのですが、いろいろ考えたあげく、くよくよにもさばさばにも貴賤はないと思うようになりました。これからも、思う存分思い悩む所存であります。
・しかし、外側から見て「余裕を装う」ことには落とし穴があるようです。「装う」という行動そのものが、すでに肩肘張っていることだからです。いや、べつに肩肘張って余裕を装うことは個人の趣味なので、特に異論はないのですが、問題は、「装う」行為のしわ寄せが、理由のよくわからない不機嫌や、刺すような毒舌となって、その人自身とは別のところに押し付けられてしまう場合です。これは、前項の「さばさばした人」にも通じることなのですが、「装う」人の「こうでありたい状況」と真の自分自身の姿の間に、実はギャップがあって、そのストレスが外に向かってゆくシチュエーションがときどきあるのです。「こう見られたい」という欲望が、本来ある自分自身の弱点が表面に現れることを規制しすぎると、そのことのひずみが自分の心を苛むのではないかと思います。
・苦しい時には、周囲に苦しいと言っていいと思います。人はそれほど「強いこと」をうらやみはしませんし、苦しんでいる誰かをいたわれもしないほど心が狭いわけでもありません。みんな生きることに必死ですし、必死で良いのです。
・優しい人ほど誠実に人の話を聞き、消耗するというのは、あまりフェアな図式とはいえません。人間関係というものは本来アンフェアなものであるにしても、これはあまりにも「言ったもん勝ち」な構造なのではないかとわたしは考えます。優しい人たちこそ大事にしなければならないのではないか、とナイーブかもしれませんが強く思うのです。
やがて、そういう人たちを傷つけないためには、自分も強くならなければいけないのだな、と考えるようになりました。何か人に吐き出したくなるような問題に直面したとしても、同じところを怠惰にぐるぐる回っているのではなく、解決に向かって少しでも進まなければいけないのです。それが、優しい人たちへの誠実さの示し方なのではないかと思います。そして、彼ら彼女らとの時間を少しでも楽しい話で埋めることによって、また本当に苦しい時にも話し合える肩頼関係が築かれてゆくのではないでしょうか。
・もしかしたら、人間の心というものは、広大な荒れ地のようなもので、そのことを寂しいと捉えるのであれば、たとえやっかいながらくたであっても置いておきたくなるものなのかもしれません。荒れ地を耕して、実の成る有益な植物を育てるには、努力も労力も必要です。そんなことをするにはあまりに力が不足している時にこそ、らくたを置きたい気持ちが生まれるのでしょう。心にがらくたを置いておくことも、精神衛生上は悪いことでもないのかもしれません。実際に、部屋にがらくたを置いておくのも似たようなことです。
・話の種に、新しい趣味のことを説明すると、ほとんどの人は呆れて、ばかだなあ、またなの、という反応を返し、おおむねは楽しく聞き流してくれます。ですがときどき、「ものにならないのにそんなことしてどうするの?」と攻撃的になる人もいます。
わたしとしては、いや、楽しいからやってるんだけども、としか言いようがありません。反面、そういう人に限って、何か時間を過ごす楽しい方法はないかと訊いてきます。それでわたしは、今までやってきたいろいろなことを勧めてみるのですが、やはりそのどれにも考しい顔はせず、どうしようかとぼやくわけです。
そういう人たちはたいてい、日常の中で賢いと言われることが多い人たちです。物事を精査し、考えることが好きな人たちだからです。故に、軽々しくつまらないことに首を突っ込んだりしないし、物の道理がわかっている人だと周囲から思われています。ただ賢明であろうとしすぎて、何かに関わった時に、本当にそれをすべきなのか、得なのか、人に見せる見栄えのすることなのか、ということにまで考えが及んで、結果的にそれらの要求を満たすものが見つけられない、というように見受けられます。
その挙げ句に、わたしのような尻軽で底の浅い人間にうんざりするのでしょう。
でもやはり、趣味は趣味だとわたしは思うのです。対外的なことを考えている時間があったら、「一応やってみること」にあてる方が有意義なように思われます。特に、初期投資が三千円以下で、始めてもすぐにやめられることなら、どんどんやっていいと思うのです。趣味は趣味だし、人に言わなければ、三日で飽きても誰にも笑われません。十年やって下手くそなままでも、その場その場が楽しければよいのです。また、その中で、自分の生きるペースにぴったり合うものが見つかるかもしれません。
・誰だって誉められたい、おもしろいね、すばらしいことをしているね、センスがいいね、すごいね、と言われたい。けれども、それが前提になると、自分自身が楽しめなくなることもあると思います。良く見られたいという欲望に囚われて、心が自由でなくなってしまうことこそ、時間の無駄だと思います。
自分が思うほど、人は他人を制止はしません。自分を自由でなくするのは、時として自分自身でもあります。隙間の時間の恩寵は、素敵に見られることに気を張るのではなく、自分の幸福のためにあるものだと思います。
・ただ、他人に肯定されることはそんなに必要だろうか、とも思うのです。もつと自言を持てだとか、難しいこと言うのではないけれども、時には、自分はこれでいい、と自分で自分にOKを出してもいいのではないでしょうか。自分で自分にOKを出せない人は、いつまでたっても、いくつになっても他人の誉め言葉を必要とするし、それだけならまだいいけれども、中には他人をおとしめて安心するようになる人もいます。自分自身を肯定するために、あなたのためを思って言うけれども、などと、自分とは異質な他者を否定するようになることもあるのです。
・心と体は、まったく性質の違うものですが、心についても、ときどきは体と同じように扱ったほうがよいのではないかと、最近よく感じています。つまり、わたしに関して言えば、心配する癖を自然な状態として放っておくことは、心を自傷しているのと同じだ、と解釈するような具合です。だから、立ち上がるたびに、自分の腿にぶつかり続けるデスクの位置を変えるように、指先をいじくるのをやめて継館膏を貼るように、心配することから自分をいったん引き離すのです。そのためにどうしたらいいかについてが、体に起こることのように、解決手段がはっきりしていないので困ってしまうのですが、とにかく、心配の中に身を沈めておくよりは、足掻いたほうが良いように思います。わたしに関して言うと、少し冷静な時に、自分が心配することに依存していると指摘するメモを書いて、見えるところに貼ったり、ひたすら興味のあることを書き出して、そのことを順繰りに考えたりしています。
後ろ向きで慎重であることは、本当は悪くないと思うけれども、ずつとそれではやはり苦しいのです。ときどきは、なんとかなるさと心を甘やかしても良いのかもしれません。