まめの
@mameno
2026年7月8日
〈私〉を取り戻す哲学
岩内章太郎
読み終わった
細かい情報の塵が山ほど頭に積もり、何かをゆっくりと立ち止まって考えるための空き容量が不足しているからである。みんなに追いていかれたくない、という漠然とした同調意識に支配されて、自分が何を欲しているのかを深く考えなくなっているからである。そして、<私>の不在。これが最も深刻である。情報に意味を与える<私>がいない。(20ページ)
平福な人とは、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、楽しみ・快楽をもとめることができる人である、と。楽しさ、快楽、心地よさ、そうしたものを得ることができる条件のもとに生活していることよりも、むしろ、そうしたものを心からもとめることができることともが貴重なのだ。
(國分功一郎「暇と退屈の倫理学』、五五頁)
私)を深く見つめ直すことは、他の<私>(=他者)を尊重する態度を陶治するだろう。それぞれの(私)が<私)を取り戻すことで、複数の<私>による協働のプロジェクトとして、言論は再始発することになるのだ。そして、これはデフォルトの<私>を受け入れることから始まる。どうにもならない<私)が、ここにいるのである。(65ページ)
問題解決が余りに強調されると、まず問題設定のときに、問題そのものを平易化してしまう傾向が生まれます。単純な問題なら解決も早いからです。このときの問題は、複雑さをそぎ落としているので、現実の世界から遊離したものになりがちです。言い換えると、問題を設定した土俵自体、現実を踏まえていないケースが出てきます。こうなると解答は、そもそも机上の空論になります。
(帚木蓬生『ネガティブ・ケイパビリティ』、一八六頁)
さまざまな場面で遭遇する問題には、「答え」が一つに絞れないものもある、ということだ。それどころか、「問い」すらまともに立たないことだってあるだろう。(204ページ)
ワクチン接種や父とのお別れの場合、どうしても判断に迷いが出たし、どれだけ考えても「これだ」という納得感は形成されなかった。しかも、調べてどうにかなる問題でもない。ワクチンを接種する直前まで、これでもし私に何かあったら、それとそ家族に迷惑をかけてしまうかもしれない、高校時代の友人たちは自分の言葉に責任を感じてしまわないだろうか、と、自分の判断と行為に迷いを感じていた。父が死んでしまったいまでも、もっと感謝を伝えられたのではないか、という未了の感に、私は苛まれている。(199ページ)
しかし、すべてにけりをつけて、いつも迷いのない生を生きるという発想が、<私>を追いつめることもある。うまく答えを出せない<私>に自己嫌悪を覚え、生きるのが辛くなってしまうのは、すべてに答えがあると思い込み、それを導き出そうとする私)がいるからなのかもしれないのだ。(201ページ)
ネガティブ・ケイパビリティを行使するとは、どうしようもない状況から逃げることを意味しない。逆に、どうしようもない状況に立ち向かうことでもない。判断保留は逃げるひとでも立ち向かうことでもないのである。それはいわば、両方から距離を取る能力だからだ。謎を謎として、不安を不安として、迷いを迷いとして、そのまま持ちこたえ、その先の新しい展開の可能性のために態度を保留する。(206ページ)
ここで注意すべきは、判断保留は思者や情動を抑止することではない、ということである。(209ページ)
それはきっと、〈私〉に嘘をつかないことでもある。自分を偽って、現実を歪曲して、その場しのぎの答えを出すよりは、(私>が置かれている状況を認めた方が、肩の力を抜いて生きられることもある。問題の所在が分からないのが、正当な場面だってあるのだ。(210ページ)