
DN/HP
@DN_HP
2026年7月10日
裂神
加門七海
「恐怖というのは感情だから、その大きさも、深さも、質も、他人と分かち合うことはできない。
喜怒哀楽すべてがそうだ。
感情は言葉や態度で、外に出した分しか伝わらない。
文章にしたところで同じだ。
どんなに言葉を尽くしても、いや、尽くせば尽くすほど、もどかしいほど気持ちは届かず、間に空虚が入り込む。」
という一文を読んで数日前から読んでいる小田イ輔さんの『44 小田イ輔 怪異聞集」というか小田さんが書いている怪談のことを思い出した。「他人と分かち合うことはできない」とももしかしたらわかりながらも、体験者と作家、それに読者の間にある空虚を埋めるように、なんとかそこにあった個人の恐怖、感情、「解決しようのない怖い思いや、普通は話せない突飛な経験」を「共有」しようとする怪談という試み。
「共有したいんだよ。解決しようのない怖い思いや、普通は話せない突飛な経験を、話して貰う事で共有して、更に文章化することで普遍的なものにする。そうすれば個人の経験を皆が擬似的に体験できるでしょ。一人で抱えてた荷物を降ろせるじゃない、それって楽になることに近くないか?」
——小田イ輔『『呪の穴』 「嘘って言うなよ?」
『裂神』も怪異によって不条理に押し付けられた感覚、感情に憑かれた人間に、はじめは拒絶しながらも、自らの過去の経験——「怪異に追われた身に立ちはだかるのは、嘲笑と否認の壁だった(『203号室』はそういう苦しみを描いた話だった)」を省みて、それらを「共有」しようと歩み寄ろうとする話だった気もする。途中までは。
「他の誰にも視えない、感じないのだから、自分の世界にも存在しない。たとえ、恐ろしいモノが嘲笑して前に立ちはだかっても、無視して突き抜け、歩けばいい。」
一方で「嘲笑と否認」を避け「共有」もしない、結果的に怪異も存在しない、ことにする。という考え方も勿論あるし、それが「正しい」場合もあると思うけれど、もしそのまま歩き続けた先に……と考えるとその逃げ場のなさに怖くなるし「共有」するということは、やはり必要では、と思ったりしている。

