
本屋lighthouse
@books-lighthouse
2026年7月11日
プシコナウティカ
松嶋健
読んでる
したがって観客とは、目撃者であり、証人である。それはある出来事に立ち会い、そのことで「私は観た」と語る者、後々まで語り続けることをやめない者なのである。グロトフスキ自身、「演劇と儀礼」というエッセイのなかでこう書いている。
俳優の仕事(vocazione=天職、召命)とは何かを問うことができるように、観客の仕事(天職、召命)とは何から成っているのかと問わなければならない。観客の仕事とは、観察者である以上のもの、つまり証人(testimone)である。証人とは、どこにでも鼻を突っ込む者でもなければ、できるかぎり近くにいようと努める者でもない、あるいは他人の行為にとやかく口を出す者でもない。証人は、ちょっと離れたところにいて、関わり合いになることを望まず、自覚的に、そこで起こることを最初から最後まで観て、ずっと心から放さない。出来事のイメージは、彼のなかに残らなくてはならない〔中略〕Respicioというのはラテン語で物事への敬意を意味する。そう、これこそ証人の真の機能である。〔中略〕証人であるとは、すなわち、忘却しないこと、たとえ何があろうとも忘れないことなのである。[Grotowski(1969)2007: 111](p.325)




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こうした演劇的真実、あるいは芸術的真実を知らない人たちは、「待つ」ことを知らず、「観る」ことを知らず、あのフランス人研究者のように「でもあなたは何もしていないじゃないか」と繰り返すのである。そういう「正常人」たちが多数を占める社会に生きるということは、「何もしていない」非生産的な存在として糾弾されたり、あるいは矯正や治療の対象になる可能性があるということを意味している。(中略)したがって、〈演劇実験室〉に参加者以外誰も立ち入ることができず、医療の論理が排除されたのには重大な意味があったわけである。そこが外の社会の通常の論理、通常の道徳から守られた繭のような場所でなければ、生命と同じで出来事も育たない。(p.345)