プシコナウティカ

プシコナウティカ
プシコナウティカ
松嶋健
世界思想社
2014年7月1日
45件の記録
  • 千虎
    千虎
    @chitora_10199
    2026年7月20日
  • 急に具合が悪くなる、の着想を得たという本。 図書館にない。六千円。
  • 世界がオプション・メニュー化されるというのは、誰かがすでに何らかの加工・処理を施した結果・産物としてのプロダクト(product)を手に入れることは容易だが、結果にいたるまでのプロセス(process)に関しては自分でアクセスし経験することが難しくなり、高くつくものになるということである。自ら経験することがなければ、その選択肢の外を具体的にイメージすることが困難になるし、探索と工夫の余地は現実的にもますます限定されてくるだろう。人は、あくまでもそうした選択肢の範囲内で「自由に」振る舞うことが許されるだけになってしまう。(p.411)
  • 「現行の社会の論理をうまく機能させないようにする」こと。ここには、便利で、スムーズで、うまくいくシステムをよしとする、「健康な者たちの社会」に対する強烈なアンチテーゼがある。そこでバザーリアが問うているのは、「健康な者たちははたして本当に生きているのか」という問いである。  システムを一旦、機能不全に陥らせたところから、自らの感覚的自覚と効力感にもとづいて、別の関係性を組み上げていくことは、本当に「生きる」ための一つの技法であるといえるだろう。それは実は、便利でうまくいくシステムが結果的にもたらすカタストロフィを事前に回避する一種の知恵ではないだろうか。システムの一部となって機能することを拒否する狂気とか病気といったものを、こうした「こわれものの哲学」の系譜に位置づけることができるのだとすると、それはまさに、現在流通しているものとは異なった価値やスタイルにもとづく別の生への入口だといえるだろう。(p.433-434)
  • したがって観客とは、目撃者であり、証人である。それはある出来事に立ち会い、そのことで「私は観た」と語る者、後々まで語り続けることをやめない者なのである。グロトフスキ自身、「演劇と儀礼」というエッセイのなかでこう書いている。 俳優の仕事(vocazione=天職、召命)とは何かを問うことができるように、観客の仕事(天職、召命)とは何から成っているのかと問わなければならない。観客の仕事とは、観察者である以上のもの、つまり証人(testimone)である。証人とは、どこにでも鼻を突っ込む者でもなければ、できるかぎり近くにいようと努める者でもない、あるいは他人の行為にとやかく口を出す者でもない。証人は、ちょっと離れたところにいて、関わり合いになることを望まず、自覚的に、そこで起こることを最初から最後まで観て、ずっと心から放さない。出来事のイメージは、彼のなかに残らなくてはならない〔中略〕Respicioというのはラテン語で物事への敬意を意味する。そう、これこそ証人の真の機能である。〔中略〕証人であるとは、すなわち、忘却しないこと、たとえ何があろうとも忘れないことなのである。[Grotowski(1969)2007: 111](p.325)
  • イザベッラはこう示唆している。人が誰かのことを「かわいい」と思うのは、その誰かが客観的に「かわいい」からというより、私の働きかけに対してその誰かが「喜んでいるのがわかるから」なのだ。その身体の反応がそのまま情動なのであり、だから私たちはそれが直接に「わかる」。そして、赤ん坊の触発された身体によってさらに触発される自分の身体の情動こそが、「かわいい」という「感情(emotion)」として経験される。(p.283)
  • 私たちは普通、「本を読む」という行為を一人でできると思っているが、それでさえ本当に一人では読めないのではないだろうか。ベアトリーチェは「刺激がない(non c'ho stimoli)」という言い方をしているが、この「刺激」は環境の中に直接ある刺激を指しているのではなく、誰か他の人と一緒にあるということから立ち上がってくる、生きるための根源的な動機づけのことであろう。それがなければ、本など読んで何になるのだろう。たとえそれがどれほど面白い本であったとしてもである。つまり、私たちは一人で本を読んでいても、本当はいつも誰かと読んでいるのである。読む行為がいっときの「ああ面白かった」で終わらず、他の人や未来につながっていくかどうかということ。読むことであれ、あるいは考えることであれ、それはたとえ一人の行為であっても、見えない多数の「われわれ」に通じている協同的な行為なのである。(p.246-247)
  • バザーリアは言う。「精神疾患は存在している。けれどもそれが何なのかは誰も知らない。問題は精神病院の中にあると人は言うが、それはとりわけ外の問題なのだ。学校や仕事、家族が、人々のなかでより弱い者たちを周縁化する。ある者は刑務所に収容され、また別の者は精神病院に収容されるというわけである」[Pivetta 2012: 153]。(p.117) 病者を治すのではなく、社会を治すのである。それも、精神科医が精神病院で病者を治すのではなく、社会が自らを治すのである。精神医療にたずさわる者は、「精神医療とは何か」「精神医学とは何か」と問い、社会から委ねられた自分たちの役割を明らかにすることで、社会が自己の矛盾と向き合い、社会が自らを治そうとするための突破口たらんとするのである。(p.120) 資本主義はそのシステムを維持するために、常に外部(つまり栄養のようなものと考えればわかりやすいか?)を必要とする。その外部には人間も含まれ、外部となってしまった私たちはシステムに搾取され続け、そのシステムを意のままに動かしていると思っている者ですら、残念ながら外部として消費されていく。そうして疲弊した者は動けなくなる。仕事ができなくなる、もしくはミスをする、定められた目標を達成できなくなる。そして「無能な存在」として蹴落とされ、見捨てられ、つまり周縁化され、さらに疲弊をしていく。ゆえに治すべきは「病者≒周縁化された者≒無能認定された者」ではなく、この社会=システムそのものであり、さらには社会=システム自体が自らを治していくように、私たちは働きかけていく必要がある。
  • この方法(現象学的分析)の重要性は、まさに医師自身を直接ゲームの中に投げ入れるところにある。彼は、観察者として外にとどまることはできず、直接参与しなければならない、症状そのものではなく彼〔病者〕が自らをあらわにするその様態(modo)を捉えようとしながら。 確かにヤスパースも述べていた。症状の記述だけでは不十分であって、その記述は観察者自身のうちに、彼の経験とか生きられた何かを引き起こさなければならない。ただこのようにしてだけ、観察者は、この症状の記述を内側から強く生きることができるのである。[Basaglia(1953)1981:3-4] (中略)そうではなく、目の前にいる存在が、彼自身のうちに何かを触発し、引き起こすという位相について語っているのである。そのとき、主体と客体、観察者と観察される者、という二分法は崩れ、「わたし」と「あなた」を区別することができないような一つの運動が発生する。 〔この運動は〕さらに、主体性と客体性との間の完全な水平性(completo livellamento)にまで至る。というのも、「わたし(Io)」は目の前にいる人の「あなた(Tu)」と混ぜ合わされて、主体(病者)と世界(医師)は、もはや区別された二つの「モノ」ではなく、一方が他方を補いあうようになるからである。[Basaglia(1953)1981:8-9](p.92-93) このくだりは精神医療のみならず私たちが生きるうえでも必要な在り方を記述しているはずで、本屋という場所でも当然に意識と実践が可能なものだ。
  • kiyu
    kiyu
    @soudensen
    2026年7月7日
  • 異議申し立てする若者たちは、それがマルクス主義に由来するものであろうが、カトリックに由来するものであろうが、現代の資本主義社会における個人主義と消費主義に対する闘いにおいて共闘した。精神医療の現場は、そうした若者たちに、観念を実践に結びつけ、他者性と多様性に対する新たな関係の構築を通して自分と世界の両方を変革する具体的な場と機会を与えたのである。(p.75) 前半部分もとても大事なのだけど、「自分と世界の両方を変革する」という部分に注目したい。いわゆる社会運動に私たちが参加したくなるときというのは、もしかしたら社会を変えることよりも「自分が変われる」というところに惹かれてのことなのではないか。だから社会を変えようというスローガンのみでは人は動かない。自分が変われる可能性を見出せること、これが必要になる。
  • Blueone
    Blueone
    @bluestuck4
    2026年7月6日
  • ねむみ
    ねむみ
    @nemui_nemumi
    2026年7月6日
  • ぐそくむし
    ぐそくむし
    @gskms
    2026年7月6日
  • 昨夜アニメ『天幕のジャードゥーガル』を観ていたら、シタラがムハンマドから「恐怖を覚えるのは知らない/わからないからで、何事にも動じずにいられるようになるには勉強が必要」というような話をされていた。それは正しい、しかし、 私たちは、ある時、ある場所で、ある人々と出会いインタラクションする。私たちは「イタリア人」や「精神障害者」とではなく、具体的な「ある」人と出会うのである。(p.13) とあるように、知識を得たことによって容易になる「一般化」には危険性もあり、それを避けることが肝要でもある。知識を得て型を見つけること、型の存在を知りつつその制約を取っ払うこと。その矛盾する営みの繰り返しが、不可能を可能にするための方法のひとつなのだろう。
  • やはりこれを読まねばならないだろう、という明白な直感のようなものがある。冒頭から「ものが沈黙して、ある」という表現、そしてその沈黙が決して拒絶ではないことが綴られており、やはりこれまた直感レベルなのだが明白に、ここになにか大事なものがあると思わせられる。明白な直感というのは奇妙な言いような気もするが、そうとしか思えないなにかは確かにあり、えてしてその直感は正しい。
  • 栗太郎
    栗太郎
    @hkri06
    2026年7月3日
  • saiki
    saiki
    @lighthouse_
    2026年6月28日
  • yoshi
    yoshi
    @yoshi
    2026年6月27日
  • mariekko
    mariekko
    @mariekko
    2026年6月23日
  • 鈍獣
    鈍獣
    @whale_in_da_room
    2026年6月22日
    『急に具合が悪くなる』制作にあたり濱口竜介が参照したとされる
  • ひさ
    ひさ
    @hsysyst
    2026年6月20日
  • Ayako
    Ayako
    @aya_rb
    2026年6月20日
    森田真生さんがおすすめしていて、かつて読んだ。
  • oraho.yam
    @syamco36
    2026年6月19日
  • 匙
    @sajisann
    2026年6月19日
  • Lusna
    Lusna
    @Estrella
    2026年6月17日
    10代を閉鎖病棟で暮らした道草晴子さんのおすすめで。 濱口竜介監督の「急に具合が悪くなる」の着想源となったそう。映画も観たい。 イタリアの精神科の本はまだ2冊目
  • ぼたもち
    ぼたもち
    @botamoch1
    2026年6月16日
  • chiro
    @hasechiro
    2026年6月8日
  • chiro
    @hasechiro
    2026年6月6日
  • 本屋twilight インスタより
  • hanathedog
    hanathedog
    @yumethedog
    2026年6月3日
  • MI
    MI
    @makimi39
    2026年5月16日
  • 추봉선
    추봉선
    @pongseon
    2026年4月15日
  • 추봉선
    추봉선
    @pongseon
    2025年3月11日
  • Kannazuki
    Kannazuki
    @kannazuki
    2025年3月7日
  • 断片
    断片
    @tundoku1219
    2025年3月6日
  • せい
    せい
    @SEIMOTTE
    1900年1月1日
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