
ジクロロ
@jirowcrew
2026年7月12日
千のプラトー 中
ジル・ドゥルーズ,
フェリックス・ガタリ,
宇野邦一
読んでる
10 一七三〇年ーー強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること……
タイトルの書かれた見開きの裏には、「エルトリアの壺と皿に描かれた狼男」の写真。
文章は、「ある観客の思い出。」にはじまり、ある博物学者の思い出、ある魔術師の思い出、ある神学者の思い出、……と、謎めいた肩書きを持つ者たちの「思い出」として書き継がれていく。
書いている内容はほぼわからない、そしてどこにいるのか、どこに導かれているのかもわからない。まるでユングの曼荼羅を手触りだけで感じているような感じ。ちゃんと「めちゃくちゃ」だとも、「ご丁寧にも」めちゃくちゃだとも思える。
それでも読んでいれば、なんとなく、何かがまとまっていく感じがある。
しかしそれもすぐに霧散する。
ドゥルーズとガタリの著書は、何冊か持っているけど、どれもこれも読破できたためしがない。どれもこれも、「わかる」ことを拒んでいる印象。ただ、なんとなく、読書の余白として読みたくなる。
文章化できない事柄を、文章しようとして、文章化できないままに投げ出されている感じ。この文体そのもので表現されているものこそが、またウナギのように逃げていく。だからまた、気づいたときに捕まえに行かざるを得ない感じ。
「感じ」という言葉でしか、表現できない感じ。
そうしていつのまにか自分自身というものがサナギになり、その外殻の内側で「強度」を感じ、「動物」を感じ、「知覚しえぬもの」を感じ、「……」のうちにまた読むのをやめてしまう。
何にでもなれるものにまで逆行すること、自らがEPS細胞みたいな「はたらき」となること。
サナギの放置、そしてサナギの数と場所の忘却。そうしていずれかのサナギが蝶になることこそ、ドゥルーズとガタリが読者に望んでいることなのかもしれない。
「生成変化」とは、否定神学のような描き方しかできない、そんな感じがする。

