千のプラトー 中
8件の記録
ともろう@tomororz-03062026年8月20日買ったAmazonから届く。いつのまにか中巻も定価で買えるようになってた。 福尾匠が9月からYouTubeライブで各2時間全4回計480分でわかる『千のプラトー』講義を有料でするみたいだけど、買おうかどうしようかと。福尾匠の『千のプラトー』講義とかめっちゃ聞きたいよな。


ジクロロ@jirowcrew2026年8月7日読んでる音楽が脱領土化をおよぼす力は絵画よりはるかに大きく、強度の面でも集団性の面でも勝っているし、声のもつ脱領土化されるときの力能もまた、絵画よりはるかに大きいように思われるのだ。これこそまさに、音楽が集団におよぼす眩惑を説明し、さらには、先ほど述べた潜在的な「ファシズム」の危険を説明する特徴だろう。音楽は太鼓やラッパを鳴らしながら人民や軍隊を破滅の淵への旅路に駆りたてる。これは軍旗や国旗の力能をはるかに超えている。軍旗や国旗は絵であり、分類や結集の手段にすぎないのだ。音楽家個人は画家よりも反動的で、はるかに宗教的で、「社会性」の度合が低いかもしれない。 (p.298) ヒトラーは、全身音楽家であったとも言える。 整列、正装、すべてはひとつの「マーチ」(行進曲)のために。 彼の演説時の身振りこそが、指揮者そのものであった。タクトは彼自身の手の振る舞いであった。 「「社会性」の度合い」、その低さこそが侵食性と共感性の強度。見たくない広告は無視することはできるが、聞きたくない音は嫌でも耳に入ってくる。そしてドンキの歌みたく、いつのまにか口ずさんでいる。 ♫ いつでも満足 不思議なジャングル

ジクロロ@jirowcrew2026年7月12日読んでる10 一七三〇年ーー強度になること、動物になること、知覚しえぬものになること…… タイトルの書かれた見開きの裏には、「エルトリアの壺と皿に描かれた狼男」の写真。 文章は、「ある観客の思い出。」にはじまり、ある博物学者の思い出、ある魔術師の思い出、ある神学者の思い出、……と、謎めいた肩書きを持つ者たちの「思い出」として書き継がれていく。 書いている内容はほぼわからない、そしてどこにいるのか、どこに導かれているのかもわからない。まるでユングの曼荼羅を手触りだけで感じているような感じ。ちゃんと「めちゃくちゃ」だとも、「ご丁寧にも」めちゃくちゃだとも思える。 それでも読んでいれば、なんとなく、何かがまとまっていく感じがある。 しかしそれもすぐに霧散する。 ドゥルーズとガタリの著書は、何冊か持っているけど、どれもこれも読破できたためしがない。どれもこれも、「わかる」ことを拒んでいる印象。ただ、なんとなく、読書の余白として読みたくなる。 文章化できない事柄を、文章しようとして、文章化できないままに投げ出されている感じ。この文体そのもので表現されているものこそが、またウナギのように逃げていく。だからまた、気づいたときに捕まえに行かざるを得ない感じ。 「感じ」という言葉でしか、表現できない感じ。 そうしていつのまにか自分自身というものがサナギになり、その外殻の内側で「強度」を感じ、「動物」を感じ、「知覚しえぬもの」を感じ、「……」のうちにまた読むのをやめてしまう。 何にでもなれるものにまで逆行すること、自らがEPS細胞みたいな「はたらき」となること。 サナギの放置、そしてサナギの数と場所の忘却。そうしていずれかのサナギが蝶になることこそ、ドゥルーズとガタリが読者に望んでいることなのかもしれない。 「生成変化」とは、否定神学のような描き方しかできない、そんな感じがする。

ジクロロ@jirowcrew2026年3月13日読んでる暗闇に幼な児がひとり。恐くても、小声で歌をうたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ちどまる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。子供は歌うと同時に跳躍するかもしれないし、歩く速度を速めたり、緩めたりするかもしれない。だが、歌それ自体がすでに眺躍なのだ。歌はカオスから跳び出してカオスの中に秩序を作りはじめる。しかし、歌には、いつ分解してしまうかもしれぬという危険もあるのだ。アリアドネの糸はいつも一つの音色を響かせている。オルペウスの歌も同じだ。 (p.317 『11 リトルネロについて』) 平日の仕事に疲れた週末、 最寄りの地下鉄に着き、地上にのびる階段を 重たい足取りで上っていると、 頭上から(大袈裟ながらそのように感じた)、 少女が、自分と同じように階段を上る人びとを 優雅にかわしながら降りて行った。 彼女の残していった見えない流線形と ゆるやかな風と残さない香に、 心が自分でも驚くほどに軽くなった。 この文章に触れ、あれが「リトルネロ」だと気がついた。 平日、地下に降りる階段は、 疲れていようが、心が重たかろうが、 彼女の姿にならい、軽やかに、優雅に、 降りるように心がけている。 それだけでもう、いくらか平日の前奏が、 一日の終わり上りゆく階段にまで、 リズムを残してくれるような気がして。 自己という暗闇に揺らぐ、リトルネロという蝋燭の灯し火。 他者とのつながり、それはキャンプファイヤーを囲み歌う「今日の日はさようなら」。

リト@leato2025年6月17日読み終わった借りてきた「暗闇に幼な児がひとり、恐くても、小声で歌を うたえば安心だ。子供は歌に導かれて歩き、立ち止まる。道に迷っても、なんとか自分で隠れ家を見つけ、おぼつかない歌をたよりにして、どうにか先に進んでいく。歌とは、いわば静かで安定した中心の前ぶれであり、カオスのただなかに安定感や静けさをもたらすものだ。」 リトルネロ(リフレイン、繰り返し)



