kay "バラバラな世界で共に生きる" 2026年7月11日

kay
kay
@hanauri
2026年7月11日
バラバラな世界で共に生きる
リチャード・ローティの哲学を、比喩を用いながらわかりやすく説明している。読みやすい本だったが、わたしは正直なところ中々考えがまとまらないでいる。本書における「「われわれ」は拡張できる」という点は、宇野および岩渕の著作にも通じるところがあった、と、思う。わたしたちは「同じ人間」だから連帯できるのではなく、他者に思いを馳せ、小さな手掛かりから「われわれ」という範疇を広げ、それによって連帯するしかない。わかりあえないとしても、「会話」を打ち止めない。本書で特徴的なのはこの「会話」という考え方だろう。 対話でも議論でもなく、見果てぬゴールや、目指すべき正しさ、共通の目的などは持たず、相手のことばづかい(ことばづかいも本書において大変重要な点だが)を知ろうとする姿勢を持ち続ける、つまり「会話」をやめずにいることが肝要であるという。「(前略)そもそも目の前に、隣に、自分とはちがうひとが、同じ生身の身体をもってそこにいるという、その平凡で当たり前の事実とちゃんとつきあっていくことなのでしょう。そして、それはきっと、私たちの誰もが失敗を重ねながら、日々磨いているはずのことなのです。」(p.194)、この文章にはすごく胸がキュッとなった。 著者はこういう意味では書いていないのだと思うけれども、もしかしたらわたしたちはそもそも、そもそもである、相手をわかろうとする生活における会話自体が、かつてよりずっと少なくなっている部分があるのではないだろうか。核家族化が進み、少子化が進み、地域から人は消え、子どもも大人もみんなが忙しく、格差が広がり、コロナ禍で生活が分断され、かつて挨拶ひとつくらいのコミュニケーションでつながっていたはずのSNSですら以前のようなのんびりしたやりとりはほとんどなくなっている。わたしたちには、お互いをわかりあうための場自体が、なんだか減っているような気がするのだ。 国会前のデモに参加した人たちは口を揃えて「同じことを考えている人たちに会えて安心した」と言う。それは政治への危機感からだけなのだろうか。ZINEが流行っている。自分の言葉で語り、相手の言葉を読み、自分とは異なる他者がいることと出会い直している。わたしたちは本当はもっと、話がしたいのではないだろうか。
読書のSNS&記録アプリ
hero-image
詳しく見る
©fuzkue 2025, All rights reserved