
時間のかかる読書人
@yoko45
2026年7月13日
読んでる
@ カフェ
平倉 そう思います。別の角度から言い直してみましょう。
「非言語的思考」の説明をするとき、私はよく登山を引き合いに出します。整備されていない山道では、斜面に対するからだの動かし方は即興的に決まっていく。極端に難しい斜面でなければ、「ここの根っこをつかめる」「ここに足が掛けられる」といった判断は、言葉で考えることなしに、なかば無意識的に、からだを動かすことでなされていく。このとき人は、からだで思考しているー斜面という「問題」をからだで「解いて」います。
芸術作品の鑑賞にも似た部分があります。作品はいわば暗い斜面です。そこにどう足掛かりをつけていけるのかは事前にはわからない。いくら知識がある専門家でも、作品をどう見たらいいのかは、あらかじめわからないんです。とにかく作品の具体的な細部を一つひとつ、目でつかまえて、そこからどういうルートをたどれば「わかる」という経験が生まれてくるか、毎回試行錯誤する。そのとき頼りになるのは、漠然とした予兆とか響き合いの感覚で、最初は言葉にならない。
絵を見るときは、画面の上を何度もたどりながら、なかに入っていきます。ルートはいくつもあり、何度もたどり直すことで、しだいに「わかった」と言いたくなるような状態が生まれてくる。この理解のプロセスは非言語的です。言葉にならない複雑な感覚のまとまりを、大きな星座を見渡すように、ギリギリつかまえる。
でも、このプロセスだけだと芸術鑑賞の半分しかとらえていません。というのは、絵のなかで、いまどれほど特別な感覚を得ていたとしても、それを言葉にしないと、持ち帰ることも共有することもできないからです。感覚は、絵の前を離れたそばからどんどん消えていきます。